創#604「小学生の頃も、15、6歳の高校時代も、その後の大学、社会人時代も、2時間くらいは、普通に歩いていました。走るのは、心の底から嫌いですが、歩くのは好きですし、人生の最後らあたりまで、歩けるという自信はあります」

       「降誕祭の夜のカンパリソーダー341」

「農地を無料で貸してくれる人は、この山奥にだって、結構、います。米の作り方は自分が教えます。農地を借りて、米作りをすれば、この田舎で、おかゆやおじやを炊きながら、隠棲できるんじゃないですか」と、Mは、唐突に切り出した。
「自分が食う分の米くらいなら、托鉢だって多分、集められる。農業で苦労するよりは、托鉢で歩く方がいい」と、私は即座に返事をした。
「とことん、モノ作りを拒否して生きて行くわけですね。それだと、先輩の嫌いな近代文明の恩恵というか、お余りをありがたく頂戴しないと、生きて行けません。そのヘンは、プライドが許すんですか?」と、Mは突っ込んで来た。
「無論、許すよ。どっちにしても、清濁併せ呑まないと、近代社会で、生を全うすることはできない。まあしかし、この山の中だと、山菜とか野性の果実を食っていても、何とか生きて行けるんじゃないかな。フィリピンのジャングルで、ずっと一人で生き延びていて、最近、やっと保護された元日本兵の人がいたが、フィリピンのジャングルよりは、毒蛇とか猛獣がいないだけでも、こっちの方が安全だろう」と、私が言うと
「先輩ならできそうです。アカになって死ぬってことは、もうあり得ないと理解されたんですから、大学をさっさと辞めて、この山の中で、修業も兼ねて、そういう生活をしてもいいんじゃないですか。そもそも、先輩には失うものとかは、何もない筈です」と、Mが決めつけるように言った。
「いや、後輩のオマエや親友、あと高校の恩師、橋本先生、従姉妹、中学の先輩など、オレにとって、大切な人は、沢山いる。それに、そういう山奥の隠棲生活だと、人生のミッションを果たせない。人は、生きて何か、より良いことをしなきゃいけない。英語でも、フランス語でも、早い段階で、比較ということを学習する。日本には、比較の概念は、そもそもなかったのかもしれないが、西欧人は、基本、弱肉強食の世界に生きているわけだから、強い者だけが生き延びる。昨日より今日の方が、より強いってことが大切だ。で、強くなれば、その強さを限りなくkeepする。この田舎に隠棲したら、強くなる必要も、より良く生きて行く必要も、なくなってしまう。オレは、まだ二十歳だ。少なくともまだ40年くらいは、社会の中で、何やかや積極的に動く必要がある。オマエは、子供を育てなきゃいけない。焼き物の水準も上げなきゃいけない。この田舎でも、昨日より、より良い自分、より強い自分というものを、創り出して行ける。山菜と野性の果実採りだけで、生活していたら、父親の復讐を考えているハムレット以上に、残念な日々を過ごしてしまいそうな気がする。目的を失ったハムレットって感じだ」と、私は無理やりハムレットにこじつけて、説明した。
「でも、無益な殺生もしません。ハムレットやマクベス、いやオセローやリア王だって、無益な殺生を次々に引き起こして、正直、残念過ぎる生き様です。この山奥で、世を捨てた方が、人類愛的、人類福祉的観点から見ても、有意義です」と、Mはあくまでも、隠棲をプッシュして来た。
「じゃあ、ここに山小舎を拵えて、毎年、夏にやって来るとしたら、その山小舎が、別荘って感じだな。『オレ、夏は四国山脈の奥の吉野川の傍の別荘に、避暑に行くんで』と、人に言ったりするのは、ちょっとカッコいいかもしれない」と、私もMも調子を合わせて言った。
「昔、山奥で野宿をした時、先輩は、サバイバルナイフを使って、そこらの樹の枝を、どんどん切り落として、柱とか屋根を拵えて、簡易の野宿小舎を作ってくれました。1時間もかかってないと思います。『うわぁ、こんな才能を持ってたんだ。今まで、何にもできない、とことん不器用な人だと、自分は勝手に思っていたが、まったく違ってた』と、先輩を見直したことがあります。サバイバルナイフを使って、今すぐに、山小舎は作れるんじゃないですか」と、Mが持ちかけた。
「あの時、オマエと山径を歩くことは、事前に判っていたので、ナイフを持ってたんだ。基本、中学生なってからは、日常的にはナイフは持たないことにしている。今日だって、持ってない。だから、オマエの子供のために、リンゴやオレンジを、ウサギさんの形に切ってくれと頼まれても、それはできない」と、私は牽制するように言った。
「子供は、まだ4ヶ月半です。すり下ろしたリンゴくらいしか食べません。ウサギさんの形をしたリンゴを見て、それを『ウサギ』だとinputしたら、間違った学習になってしまいます。まず、本物のウサギを見て、その後、段階を経て、やっと最後らヘンあたりで、ウサギさんの形をしたリンゴに辿り着くべきです」と、Mは子供の教育に関する方針を述べた。
「4ヶ月半だと、もう目は見えているのか?」と、私が聞くと
「多分、見えてると思います。あっちこっちに視線を動かしていますから」と、Mは返事をした。
「ここには電気は来てないが、母屋では、さすがに電気を使えるだろう。テレビはあるのか?」と、私が聞くと
「ないです。たとえ、テレビを用意しても、電波の状態が悪くて、劣悪な画像です」と、Mは教えた。
「幸いなことに、画像が劣悪で、テレビは不可だってことだな。じゃあ、まあオマエと奥さんが、絵本を読んで聞かせてやればいいんじゃないか。男の子だったら、推理小説とかも好きかもしれない。自分の子供に、『名探偵シャーロックホームズ』とか『怪盗アルセーヌルパン』とかを読んで聞かせるのは、何かめっちゃ楽しそうだ。夏休みに山小舎の別荘に来たら、その時、何だったらオレも、読み聞かせてやってもいい」と、私は、サバイバルナイフを使って、山小舎を作り終えたような気分で言った。
「読み聞かせの絵本なども準備してくれますか?」と、Mも話しに乗って来た。
「東京にだって公民館のように場所がある。東京だと、名称はコミュニティセンターだが、要するに公民館だ。その公民館の掲示板に『四国の山奥で子育てをしている友人がいます。その友人の子供に絵本などを読み聞かせてあげたいので、もし譲っていただける絵本などがあれば、寄附して下さい』と、貼り紙を出したら、すぐさま、20~30冊くらいの絵本は集まる。東京は、そういうとこなんだ」と、私はMに説明した。

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