文#6「態度が大きく、生意気で、鼻持ちならない女性が、ここ一番という時に、いい仕事をしたら、やっぱり惚れてしまう男だっていそうな気がします」

「文学ノート6(源氏物語18)」

 源氏物語絵巻の関屋の絵を眺めています。北側から南の関屋方面を見て、描いた絵です。下手から空蝉の乗っている牛車が、中央に近づきつつあるのは解ります。石山詣に行く光源氏の牛車は、判別できません。馬に乗った従者らしき人はいます。左の奥には大津の打出の浜らしきものが見え、山々の緑と紅葉の紅色が、点々としているのも解ります。「九月晦日なれば、紅葉の色々こきまぜ」というほどの紅葉でもありません。松の緑が、全体の基調だと感じます。
 源氏は29歳です。空蝉の年齢は解りません。光源氏より少し歳上です。二人が、一夜限りの契りを結んだ時、光源氏は17歳でした。一度だけ、勢いとまあ、その時の油断で契ってしまいましたが、その後、空蝉は会うことを拒否しました。光源氏が嫌いだったからではありません。あまりにも身分が違い過ぎて、関係があったと周囲に知られるだけでも、自分自身がみじめになってしまうんです。そういう複雑な女の心理を、17歳の青年は、理解できません。光源氏は、空蝉との恋愛ゲームで、自分は負けたと思い込んでいます。
光源氏は、空蝉の弟を、男色の童子兼メッセンジャーとして使っていました。その弟は、光源氏が須磨に流された時、光源氏と距離を置いてしまいました。権力の中枢から、離れた落ち目の人間に、普通の人は、ついて行きません。が、光源氏は、再び、都の政界の中心人物として返り咲きました。光源氏は、空蝉の弟の右衛門佑を召しよせます。当然のことながら、気まずい空気感が生まれます。光源氏が弟を通して伝言を伝えると、空蝉は
「往くと来とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水と人はみるらむ」と云う歌を詠みます。これはまあ、「ずっと好きだったのよ」みたいな空蝉のshoutと言ってもいいかもしれません。今さらの本音です。が、今さらの本音を洩らしても、いや洩らさなくても、もうあの頃の二人には戻れないし、正直、疑似恋愛すら成り立たないくらい、二人の位相は離れ離れになってしまっています。私は、29歳の時、17歳の時に、好きだった人に残念ながら、会ってません。関屋で、空蝉が光源氏と会ったのは、偶然です。が、偶然を引き寄せたいと空蝉が、強く願ったからこそ、関屋の出会いがあったと云う気もします。
 ところで、雨夜の品定め。左馬頭は「常はすこしそばそばしく、心づきなき人のをりふしにつけて、出でばえするやうもありかし」と述べます。
 生意気で気にくわない女が、何かの折には、とんでもなくすばらしいperformanceを見せてくれる、やる時はやるみたいな女性もいます。普段は、頼りがいのある満点彼女みたいに見えているのに、いざとなったら、まったく使えないへたれ女だったと判明したなんてことは、枚挙にいとまないほど、無数にあります。その逆は、まあめったにないんですが、いるっちゃいます。彼女には、別にしたくないけど、友人としては、keep しておくべきかもです。ここ一番と云う時に使える人間は、男女ともrareで、貴重な存在です。
「今はただ品にもよらじ。容貌をばさらにも言はじ」と、左馬頭は、一気に敷居を下げました。身分は、下でもいいし、顔もどうでもいいと言いきったわけです。「じゃあ、末摘花でもいいんですか?」と、この物語を何度も読んでいる私は、突っ込みたくなります。末摘花は、普賢菩薩が乗っている象さんの鼻と同じくらい、鼻の長い女性です。いくら何でも、これは、ヤバくないですか。が、光源氏は、まだ末摘花に出会ってませんから、突っ込めません。下の品でもいいと言ってますが、まあやっぱり限度があります。貴族と庶民とが絡むことは、中古のこの時代は、あり得ません。
「ねじけがましきおぼえだになくは、ただひとへにものまめやかに静かなる心のおもむきならむよるべをぞ、つひの頼みどころには思ひおくべかりける」なんです。ひねくれてなくて、真面目、落ち着いた性格の女だったら、OKって感じです。まあ、この平凡なタイプも、いそうで、簡単にはいないかもです。
「上はつれなくみさをづくり、心ひとつに思ひあまる時は、言はん方なくすごき言の葉、あはれなる歌を詠みおき」と云ったこともあります。普段は、表面を取り繕って、可愛い子ぶって話しているんだけど、いよいよとなったら、ぶち切れる、そういう女性は、いっぱいいます。というか、女性を徹底的に追い込んでしまったら、大部分の女性は、ぶち切れるんじゃないかと想像しています。いよいよとなった時の修羅場を経験された、boy & girlたちは、正直、もうあれはやりたくないと、過去の黒歴史として封印されているんじゃないかと推測しています。
 現在ですと、売り言葉で買い言葉で、言葉ですごむだけですが、この時代ですと、あと味の悪い歌を詠んで、どっかに消えるケースもあるわけです。
 今だって、恋愛の修羅場の果てに、相手が死んだりしたら、生き残った方も、だいたい人生は、終わった感じになります。恋愛の修羅場で、相手に死なれたと云った彼女、彼氏に接近したいと考える、boy & girlはまずいないと思います。そういう相手と、お付き合いすることは、どう考えても不吉です。相手が死んだ以上は、自分も十字架を背負って、生きて行くしか道はないんです。ただ、恋愛や結婚以外のジャンルで力を発揮するのはありです。十字架を背負っている人間が、発奮していい仕事をする、それはありそうです。
 女に出家されたりすると、男はやっぱり困ります。蜻蛉日記の作者の道綱の母は、出家を決心して、鳴滝に参籠したんですが、夫、兼家が乗り込んで来て、連れ戻されてしまいます。兼家のメンツ的にも困りますが、道綱の母だって、連れ戻しに来て欲しいと願っていた部分も、きっとあります。

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