創#585「300人くらいの生徒の作文を、睡眠時間を削って、丁寧に読んで、一枚一枚、コメントを書いていた時期がありました。還暦を過ぎて、物理的にそれができなくなりました。還暦を境に、人は老いの世界に、自然に入って行くんだと思います」

        「降誕祭の夜のカンパリソーダー322」

「生徒の絵を見ることは、嫌いではないが、枚数が多すぎる。オマエも知ってる通り、J中では、中二で美術が必修だ。花でも果物でも、風景でもいいが、全員に絵を描かせると、ひとクラス50人だから、350枚の絵を見ることになる。描かせた以上、それを評価しなければいけない。それなりに丁寧に見て、一人一人に簡単なコメントを書くとすると、どうしても一人五分くらいは、時間が必要だ」と、O先生は私に言った。
「350枚だと、1750分、約30時間くらいかかります。毎日、5時間ずつ見るとしても、6日間です。学期中に、その6日間を確保するのは、やっぱりきついんじゃないですか」と、私が言うと
「まあ、ほぼ不可能だと言っていい。睡眠時間を削らないと処理できない」と、O先生はこぼした。
「睡眠時間を削ってしまったら、集中力が低下しそうです。評価の基準もブレてしまいますよね」と、私が言うと
「評価は、五段階で言えば、概ね大半は3だ。クラスに1、2枚、すくれた絵がある。これは、集中力が下がっていても、即座に判別できる。箸にも棒にもかからない絵も、ひとクラスに何枚かはある。すぐれた絵は5、箸にも棒にもかからない絵は2。これで、全体の平均は、だいたい3だ。この評価を下すことは、そう大変なことではない。2、3行のコメントを書いているが、これがきつい。絵を見ても、まったく何も思い浮かばないってことがよくある」と、O先生は率直な口調で言った。
「そりゃそうです。のど自慢大会の歌を聞いていても、『上手いけど、だから何?』って思う歌は、どっさりあります」と、私が言うと
「その場合、歌がお上手ですねとか、サビのファルセットは心地良かったですとか、何やかや、適当なことを言えるだろう」と、O先生は指摘した。
「言えますが、それはおざなりです」と、私が反論すると
「おざなりが言えるだけいい。おざなりも言えないような絵が沢山ある」と、O先生はこぼした。箱根の彫刻の森美術館に行った時、あまりにも彫刻の数が多く、彫刻に関しての歴史的な知識の持ち合わせもなかったので、同行した友人に、万一、感想を求められても、何も言えないような気がしたが、美術の先生であっても、自分と同じように、インパクトのない作品に関しては、何も言えなくなってしまうんだと理解した。
「が、他の生徒には、その2、3行のコメントを書いてあげているのに、特定の生徒のみコメントがないのは、可哀想です。書いて貰えなかった生徒は、多少なりともやっぱり傷ついてしまいます」と、私が言うと
「確かにそうだ。だから、最近は『良くできました』というメッセージとウサギさんのイラストの入ったスタンプを付箋に捺して、それを貼り付けている」と、O先生は私に教えた。
「何にも書かないよりは、スタンプの方が、まだ多少はいいのかもしれませんが、五十歩百歩だって気もします。コメントしたい生徒にのみ、コメントするというスタンスで、教えるためには、公立学校を辞めて、画塾を開いた方が手っ取り早そうです」と、私が言うと
「ここは、画塾を開いて食っていけるほどの大きな町じゃない。教職をリタイアしたら、たちどころに経済基盤を失ってしまう。そうしたら、演劇も、様々な社会活動もできなくなってしまう。自分自身が自力で食えなかったら、他人に影響を与えることも、幸せにすることも、到底できない」と、O先生は私に言った。
「年金で食って行けるようになったら、働かなくても、経済的な基盤は確保できます。そうすると好きなことに没頭して、老後は安心して過ごせそうです」と、私が言うと
「生老病死のあとの三つの老病死が、すぐ身近に迫って来る。そしたら、趣味に没頭するどころじゃなくなる」と、O先生は懸念するような口ぶりで言った。
「老病死とかって、どうせやってくるものだし、そんな心配などせず、気楽に暮らして行けばいいんじゃないですか。少なくとも、私が子供の頃に知っていた漁村の古老たちは、老病死などには、まったくこだわらず、岸壁のベンチに座って、海を眺めながら、お迎えを待っていました」と、私は子供の頃の記憶を辿りながら言った。
「老病死を、さて置こうとしても、検査で引っかかってしまう。還暦を過ぎると、何かしら数値が悪化する」と、O先生はぼやくように言った。
「検査を受けなければ、数値そのものが存在しません。私が小1、2だった頃は、昭和30年代の半ばくらいですが、その頃、私が知る限り、健康診断のような検査を受けていたのは、学校の児童生徒だけでした。私は、その検査が嫌いでした。それだけが理由ではありませんが、小中学校時代は、たいして学校には通ってません」と、私が言うと
「圭一は、そういう特殊な子供だった。今後も、自分自身で拵えた世界観の中で、自由に生きて行くと想像できる。普通の人は、そんなに自由じゃない。いろんなものに、縛られている。圭一は、別段、誰にも、何によっても、縛られてない。それは、ちょっと羨ましいが、恐ろしく孤独な生き方だ」と、O先生は正直に感想を述べた。
「まり先輩の店に、行ってみます。簡単な略図を書いてくれませんか」と頼むと、O先生は、メモ用紙に略図を書いて、「まりへ。通りすがりの旅人を紹介する。from O」と、メッセージも書き添えた。私はメモを受け取って、
「コレは、通りすがりの旅人だから、いつ何時、ふらっといなくなるのか判らない、ボランティアで店を手伝わせたりしても、アテにならないぞと云うO先生のお節介な思いやりの精神から発しているメッセージですか、それとも、通りすがりの旅人だから、いなくなるまで、徹底的に店でこき使っておけという意味のこもったそれですか。まあ、どっちにしても、必要だったら手伝いますし、まり先輩の子供が、わぁわぁ泣き叫んでる様子に耐えきれないと判断したら、即座に、店ともまり先輩とも、say-goodbyします。私は、昔話とか、思い出話とかをするのは、別に嫌でもないんですが、まり先輩は、中学時代の過去を、もしかしたら思い出したくはないかもしれません。こっちに戻って来たら、何らかのお手伝いはします。まあ、アテにしないで、これからもいい仕事をなさって下さい」と、私はO先生に言って、店を出た。

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