文#4「AIは、デジタルをデジタルに置き換えることしかできません。デジタルをアナログに、アナログをデジタルに置き換えることができるのは、人間だけです」

             「文学4」

 朝日歌壇の選者の永田和宏さんは「創作とは無限なアナログ世界を、言葉という有限なデジタルの世界に置き換えることだ」と、仰っている。これは、まさにその通りで、どういう風に表現していいのか、分からないので、取り敢えず、言葉を連ねたり、線を引いたり、音を出したりするんだろうと理解できる。
 生成AIが文章を書いたり、絵を描いたり、短歌を拵えたりすることは、まあ普通にできるだろうと思う。生成AIは、過去の膨大なデーターの中から、適切な情報を拾い出して来る。文章はどんどん磨かれて行って、絵のクォリティも高くなり、人を感動させるような短歌を詠めるようにもなると想像できる。が、それは、生成AIの感情を伴わないメカニズムの作業に過ぎない。生成AIは、デジタルなデーターを、やはりデジタルな、より複雑なものにアレンジしているだけのことで、生成AIには、喜びも悲しみも失望もない。アナログのもやもやした世界を、デジタルな文字で表現することができるのは、人間だけ。人間は、これが、creativeで、自己に喜びをもたらすactivityだからこそ、苦労して格闘しようとする。
 人間は、デジタル情報を、アナログ情報に還元して鑑賞することもできる。これは、感動という形で、人間に幸せをもたらしてくれる。アナログに還元されているので、それを、表現することは、本当は不可能。小林秀雄は、美は人を沈黙させると言ったが、本当に美しいものに出会ったら、デジタルな言葉は出て来ないと思う。デジタルの整えられた言葉の連なりを、アナログの世界に還元して、喜怒哀楽をしみじみと痛感する。
 時間は、かなりかかるが、短歌をある一定の分量、読み込めば、短歌の面白さが、少しずつ判って来るということを、永田和宏さんは、私に教えてくれた。古稀の手習いで、短歌詠むつもりは、さらさらないが、短歌鑑賞であれば、たとえ、ベッドで寝たきりになっても、できることだから、老後をよりゆたかなものにするために、今後も、続けて行こうと考えている。最終的には、万葉集に辿り着きたいが、教職リタイア後、丸一年間は、週刊誌ばかり読んでいたわけだから、新聞に掲載されているup to dateな短歌などを当分の間は、読み続けて、三十一文字の世界をenjoyしたい。
 と、前説で、800字近くを使ってしまった。が、まあ老人になると、こんな風な取りとめもないことを書いたり、言ったりするものだろうと思う。ヘミングウェイの「老人の海」のサンチャゴだって、針に食いついたカジキマグロや飛び込んで来た飛び魚、セールの綱に止まった鳥などと、しょっちゅう話をしていた。残念ながら、私は小舟(skiff)に乗って、海に乗り出したりすることは、もう体力的にも不可能だが、絵や音楽、文学を触媒として、好き勝手に喋ることは、いくらでもできる。
 今のとこ、ワープロなどの文明の利器のお世話になったりしているが、いよいよ晩年になれば、広告チラシの裏に、4Bくらいの鉛筆を使って、メッセージを書き綴って、教え子にラフな手紙を出したりすると思う。教え子は、当然のことながら、ほぼ全員、私よりだいたい、二回り以上、歳下なので、私は、手が動かせなくなるまで、手紙を書き続けることができる。それをポストに出しに行くくらいのことは、妻か子供たちの誰かがやってくれると思う。
 生成AIなどは、もちろん、この先も、一生、使わない。私のような年寄りが、生成AIを使ったら、即座にボケてしまう。若い人だって、生成AIを使えば、使うほど脳の働きは、衰えて行く。こんな当たり前のことを、何故、世の中の人は普通にshareしないのかと、正直、不思議な気さえする。
 永田和宏さんが選んだ短歌。
「時にまだ時にはもうと使ひ分け七十代は生き易きかな」(藤原明)
私は、来年の夏、70歳になる。8月が私の生まれ月。が、8月の終わりあたりに「今日、70歳になりましたから」とアピールしても、時期が中途半端なので、50歳を過ぎたあたりから、8ヶ月ほど繰り上げ、1月1日の新しい年を迎えた時点で、年齢を加算するようになった。だから、1月1日になれば、70歳。
 70歳は、もう無理ですと逃げまくることも、きっと許されている。逃げまくるのは、昔から得意。県庁時代、財政課に勤務していて、数字を扱う経理は得意だった。教員になって、「高校だって文系だったし、数字はまったくもって苦手です」と言って、予算や会計の仕事からは、逃げまくった。そうすると、3、4年も経過しない内に、計算、経理の能力が著しく退化した。今の私は、確定申告すら自分の力ではできない。家計は、すべて妻にお任せ。ふるさと納税とかをして、故郷に貢献をしたいが、経理上の能力が皆無なので、不可能。いろんな能力が、連動して退化し、今では、時刻表すら満足に読み取ることができなくなってしまっている(だから、時刻表と地図を見て、全国を漫遊するという「てい」の暇つぶしとかはできない)。カロリー計算とかもできない。が、栄養学というものを、そもそも信じてないので、これは不要。
「まだ」の方は、70代、80代でも、絵画、音楽、文学などの鑑賞は、まだ普通にできるという絶対に自信がある。文章だって、まだ普通に書ける。過去の文章と比較などもしない。そもそも、私は過去の文章を残してない。万一、残っていても、それを読み返したりはしない。新しい文章を、まだ普通に書ける。読み返す必要は、まったくない。
「僕だって一手の読みを誤って結婚したが今は幸せ」(樋口勉)
一手の読みを誤ってしまったので、永瀬王座は、髪をかきむしったといった風な短歌を、佐々木幸綱さんはお選びになっていた(「一分の間に頭かきむしり頭を下げて棋士は無冠に」(額田浩文))。将棋は、一手を読み誤っても、まあ、リカバーなりリベンジなりが可能だが、結婚の一手の読みを誤ってしまったら、永久カッパえびせんのように、その失策は尾を引き続ける。が、樋口さんは、「今は幸せ」と、結んである。まあ、これは明らかに奧さんに対するリップサービス。一手の読みを間違えて、結婚してしまったら、もう取り返しがつかない。この短歌を、他山の石として、若い短歌ファンが学んでくれたら、樋口さんのリスキーなカミングアウトは、多少なりとも社会に貢献できたと言えのかもしれない。
「信じれば夢は叶うと信じてた鉱石ラジオが歌ってた空」(松本淳一)
歌は、きっと坂本九さんが歌った、スキヤキソング(上を向いて歩こう)とかだと想像できる。古本屋で、「子供の科学」の付録の鉱石ラジオキットが、売られていて、購入し、組み立てた覚えがある。ラジオは自宅にあったが、自分自身の手で、何かを完成させたかったんだと思う。が、付録の鉱石ラジオは、音が出なかった。これは小3の時。小3から、私は、算数も理科も嫌いになった。

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