創#586「大学1年の夏、一個上の先輩のM子さんに、『あんたは、中学校で転校して来た時から、通りすがりの旅人だった』と言われましたが、人生をトータルで見ると、確かにそうだったなと、納得してしまいます」

        「降誕祭の夜のカンパリソーダー323」

 まりさんの店は、K川に向かう道路沿いにあった。看板には、「Marie」と店名を掲げてあった。アルファベットの最後のeは、女性名詞につける無音の語尾で、これでマリと読ませるんだろうと想像できた。
 もう夕暮れが迫っていて、店内にお客さんはいなかった。
「すみません。もう店じまいしてます」と、まりさんは、洗い物をしながら言った。
「でも、紹介状持参です」と、私はO先生が書いてくれたメモをカウンターに置いて、カウンター席に座った。まりさんはメモを見て
「通りすがりの誰?」と、呟きながら私を見た。
「なあんだ、圭一じゃない。今、東京? でも、中2でJ中に転校して来た時から、あんたは、通りすがりの旅人だったわよ」と、まりさんは軽口を叩いた。
「まりさんには、子供さんもいらっしゃるそうだし、通りすがりの旅人には、なりたくってもなれませんね」と、私は言った。
「もう片付けたから、オーダーされても何も出せない。ウチは禁煙だから、煙草もダメ。煙草を吸いたくなったら、テーブルに星座ガチャがあるから、それを廻して、星占いを読んで、一緒に出て来るナッツを囓(かじ)りながら、今週の運勢とかを、見てもらうって趣向にしてある。ガチャは、一回、百円。まあちょっと高いかも。でも、遊びだから少々、高くても已む得ない」と、まりさんは説明した。
「この時刻に店じまいをしていますから、アルコールも出してないんですね。ナッツなんて、ウィスキーのハイボールとかコークハイを飲みながら囓るものです。それに、今週の運勢とかって言ってますが、何週間も前から、占いの紙だって、詰めっぱなしの筈です。詰めるのだって、まりさんがやってて、まりさんの恣意で、運勢は決定してしまうんじゃないですか?」と、私が言うと
「『同業者の方、入店お断り』と、貼り紙をしておくべきだったわ」と、まりさんは、笑いながら言った。
「圭一は、大学生でしょう。大学では演劇をやってるの?」と、まりさんは訊ねた。
「昔、百姓代の娘役のまりさんに、庄屋のバカ息子だった私は突き飛ばされて、その時、頭を打って、役者としてセリフを喋ることができなくなりました。トラウマですよ。演劇は、人の人生を変えてしまいます。そんな恐ろしいとこには、近寄りたくないという気もして、演劇とは距離を置いています。まりさんの御主人は、やっぱり演劇人ですか?」と、私が聞くと
「そんな筈ない。市役所の窓口で、地味に仕事をしている公務員よ。ドラマチックなことは、何ひとつないと言ってる。まあ、あたしと出会ったのが、人生最大のドラマだったのかもしれない」と、まりさんはしみじみとした口調で言った。
「御主人は、おいくつですか?」と、私が聞くと
「あたしよりひとつ上だから22歳」と、まりさんは返事をした。
「『22歳の別れ』って曲があります。あの曲を、耳を澄ませてlisten toしていると、22歳以降、もうドラマは起こらないような気がします。これって真実ですか?」と、私がまりさんに聞くと
「あたしは、今、21歳。まだ22歳は経験してない。その質問に答えるのは、理論的には無理。でも、先輩方の話しを聞いていると、22歳以降は、犯罪でも犯さない限り、もうドラマはなさそう」と、まりさんは返事をした。
「まりさんが人を殺すとかって、考えられません。声色は自由自在に変えられますから、声で男を騙すことはできますね。いただきまりちゃんとかってネーミングの結婚詐欺師になる未来予測図は、描けます。それって、結構、ドラマチックな感じがします」と、私が言うと
「子供がいるから、もうそれはない。あたしは、いい母親になると決心して子供を産んだ。子供を産んだら、やっぱり何かしら変わる。道徳は、やっぱり大事かなと思ったりもする。圭一は、子供嫌いなのに、結構、道徳的。それは何故?」と、まりさんは訊ねた。
「自分は中学時代、器物破損は相当やってますし、ハデな喧嘩も経験してます。まあ、人を殺したいと考えたことはないので、そこは道徳的かもしれません。子供の頃、『あんたは生まれて来るべきではなかった』と、母親にしょちゅう言われていました。伯母の話しなどを聞いていろいろ推察すると、99パーセントくらいの確率で、私は堕胎される予定だったんです。1パーセントの可能性で生まれたわけですが、生まれる時、逆子で、臍の緒を首に巻いていて、産道を出る時、臍の緒が首を絞めてしまい、死産になりそうだったらしいです。で、産婆さんが、すばやく鋏で臍の緒を切って、九死に一生を得たそうです。99パーセント堕胎の予定で、九死に一生を得たわけですから、99.9パーセントくらいの確率で、本当は生まれてなくて、0.1パーセントの確率で、かつかつ生まれたんです。そう考えると、この可能性で生まれたことは、超ラッキーだったと、考えざるを得ません。0.1パーセントの可能性をかいくぐって生まれ、育った人間は、ごく普通に生命の尊厳ってことを考えます。人間に対してであれ、動物、鳥、魚とかであれ、命に対する尊厳ということを、私は充分理解しています。まりさんの仰る、道徳的というのは、そのヘンから出ているのかなという気はします。が、生命に対する尊厳の気持ちを抱いていたとしても、それが親孝行とか、子供好きとかには、結び付きません。各人、それぞれが、自己や他者の生命の尊厳をモットーにして、生きて行けば、それで充分、何とかなって行くような気がします。が、セルフケアしない、自暴自棄に陥って自滅する同級生や先輩を、結構、見ました。そういう人は、生命の尊厳が、本当の意味で、理解できてないって感じがします。まりさんは、やっぱり超賢い先輩です。自己の生命の尊厳は無論のこと、常に自分にとって、何が一番有利なのかということを、計算し尽くして行動しています。正直、あざとすぎるってとこはあります。まり先輩と親しかったK先輩とかは、ある意味、パンク女子でした。あんなむちゃくちゃな人は、リスクが高すぎるので、私は警戒していましたが、あのタイプに惹かれる男は、結構います。あざといまり先輩にぐいぐい惹かれる男は、少ないと思いますが、まり先輩は、夜の怪しい妖精に変身することもできますから、男たちは、その怪しさに落ちてしまうってとこはあります。まりさんは、自由自在にキャラを変えられます。子供さんがいるとしても、舞台を離れて、健康的なカフェのママさんに、収まってしまっているのは、ちょっともったいないような気もします」と、私は率直な口調で言った。

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