美#103「女性は、服装、ヘアスタイル、目元のメーキャップで、まったく別人に変身します。リアルキャラ変。これはこれで、楽しそうです」

           「アートノート103」

 中央公論社の世界の名画のマネとドガの画集のカバーには、マネの「バルコニー」が、使われている。この絵は、1810年代に描かれたゴヤの「バルコニーのマハ」の影響を受けていると、説明されている。手元にあるゴヤの画集を開いて確認しなくても、マネの絵とゴヤのそれとの関連性は、ほとんどないと言い切れる。
 ただ、マネの絵の左側の女性(つまりベルトモリゾ)の化粧と衣装の雰囲気が、スパニッシュっぽいということは、理解できる。マネは、闘牛やスペインバレー、ギタレロ(スペイン語でギター奏者)など、スペイン風のものを、沢山描いているが、第二帝政時代は、皇后のウージェニーがスペイン出身だったので、スペイン文化が一世を風靡していたとは言える。
 ゴヤの絵は、バルコンのすぐ傍にマハが二人いて、背後にマホが二人控えている。この四人の間には、何らかのドラマが存在する。マネの絵も、バルコニーの傍に二人の女性がいて、奥に男性が二人立っている。が、この四人の間には、ドラマは存在してない。一番奥でボーイ役をしている人物は、マネの息子のレオンで、親の欲目で、ちょい役で登場させたんだろうと想像できる(レオンを描かなくても、この絵の全体像には、さして影響は与えない)。
 スペイン風の衣装を着て、扇子を持って、バルコニーに右肘を載せているベルトモリゾーは、まったく何も考えてないような、無表情な目で、バルコンの外を見ている。右側の女性は、マネ夫人の音楽仲間のファニークラウス。彼女は、大きな花飾りを髪につけている。背後に立っている男は、風景画家のアントワーヌ・ギルメ。この三人は、それぞれ、孤立してスタンドアローンで、存在しているかのように描かれている。個人それぞれが、どうしたって孤立せざるを得ない近代社会の一側面を表現していると解説している画集もある。
 ベルトモリゾをモデルにした絵だと「黒い帽子のベルトモリゾ」が、もっとも著名な絵だと言える。「黒い帽子のベルトモリゾ」と、バルコニーの彼女とは、まったく違って見える。口脣(くちびる)の形は似ているし、鼻も眉も同じ。が、目が全然違う。バルコニーの彼女の瞳には光が入っている。黒の帽子のベルトモリゾには、目の中に、光は入ってない。マンガや写真でも、たいがい瞳には光が入っていて、そこが白くなっている。が、絵の場合は、白を入れなかったり、瞳の黒のグラデーションを変えたり、時には青を混入させたりもする。髪の色も違う。黒い帽子のベルトモリゾの帽子からはみ出している髪は、光が当たっていて、ブロンドに見える。
 マネの「スケートリンクにて」という絵は、スケートリンクの傍に多少、ふっくらとしたブルジョワ女性が、黒に白をあしらったコスチュームを着て、立っている。帽子を被っていて、帽子からはみ出している髪は、やはりブロンド。スケートリンクは、マネが足繁く通った社交場だったらしい。この女性は、オレンジ公の愛人だったので、シトロン(レモン)と呼ばれていたアンリエットオーゼル。
 彼女は、同じ年、「ナナ」のモデル役も務めている。が、スケートリンクのレモンちゃんと、ナナのレモンちゃんは、やはりまったく別人に見える。スケートリンクの方は、貫禄のあるブルジョワ女性だし、ナナの方は、明らかに、はすっぱな夜の蝶。
 ナナは、下着は身につけているが、腰や脚の見せ方を考え抜いている。どういう風にふるまえば、コケテッシュに見えるのか、知り抜いている。二の腕とかも、むっちりしていて、欲情をそそられる男は、沢山いると想像できる。15世風のソファー椅子に腰をかけて待っている中年紳士は、デートに出かける前に、すでにナナに、落とされてしまっている。
 ゾラの「ナナ」は、肉体の美しさ(顔だけでなく、身体のどの部分も魅力的)で、花形女優になり、豪奢な生活を送るが、ゾラの「ナナ」よりも、マネの「ナナ」の方が、先に描かれている。マネのこの絵を見て、小説のナナの容貌、キャラ、人間性などは、それなりに影響を受けてしまったんだろうと想像できる。
「カフェにて」と言う絵は、カウンターに三人の男女が腰を下ろしている。一番、手前にいて、帽子を被ってこちらを見ている女性は、エレンアンドレー。コートを着ているので、正確には解らないが、ぽっちゃりタイプだと推定できる。
 同じモデルを使って、マネは、三年前に、パリジェンヌという肖像画を描いている。パリジェンヌは、羽根がついていて、一方はまくれ上がった「近衛騎兵」と通称される帽子を被り、裾を引く長い青紫の衣装をつけ、手に洋傘を持っている。タテ192cm、ヨコ120cmのキャンバスに描かれた、ほぼ等身大の気品のある肖像画。
 ところで、パリジェンヌと「カフェにて」の女性を較べると、まったく違う。マネが、違う人物を描き分けたというより、女性たちが、時と場合に応じて、雰囲気を変えて登場した結果だろうと推定できる。
 今、教えている学校に、育休で3年間休んで、復帰されたMさんという先生がいる。同じ社会科の先生なので、育休に入る前に、一ヶ月ほど同僚として過ごした。そう親しかったわけでもないが、一応、どういう先生なのか、私なりに理解していた。が、3年後に再びお会いしてみると、3年前と、全然、繋がらない。お母さんになって、子育てを三年間やって、いろいろと大きく変化したんだろうと、想像できる。
「目は口ほどにモノを言う」という俚諺は、まあ真実だとは思うが、絵画でも、写真でも、目で、精神世界を表現することは、ラクダが針の穴を通るより難しそうな気がする。帽子、ヘアスタイル、髪飾り、洋服、身につけている宝石、手の表情、身のこなし方、リズム感などなど、さまざまなものを総合して、その個人のキャラクターは、決定される。
 絵の場合、どれくらいの距離感で、どのアングルで鑑賞されるのかということも、重要。色の塗り方は、やはり一種、天性のバランス感覚といったものが、必要だろうと思う。
 マネの私の一推しは、プラムの入ったカクテルグラスをカウンターに置いて、頬杖えを突きながら、右手のひとさし指と中指との間に煙草を挟んで、ぼんやりと何かを考えているかのように見える、サーモンピンクのスーツを着た女性の像。

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