文学#1「たろりずむさんの『取り戻せ和式便所で朝刊を読んでいた時代の活力を』を読んで、短歌に興味を持ちました」

           「文学ノート1」

 日曜日の朝日新聞には、歌壇と俳壇のページがある。スポーツや株式の欄同様、毎回、スルーして、ほとんど見たことがなかった。俳句の方は、ごくたまに、年に4、5回くらいは目を通していたが、歌壇はpowerfectにスルーして来た。そもそも、短歌というものが、良く解らないし、好きでもない。
 20年くらい前に、歌人の穂村弘さんが、週刊誌にエッセーを書いていて、それは、読んでいた。たまに、穂村さんのおちゃらけた短歌も見た。が、まあこれは、穂村さんの世を忍ぶ仮の姿だろうと勝手に想像していた。
 ちょっと前の音楽ノートに、穂村さんが選んだ、たろりずむさんの短歌を引用した。短歌が言葉の遊びだとしたら、たろりずむさんの短歌もありだなと納得した。
 日曜日の朝日歌壇は、古典の伝統を踏まえた、格調の高いものだろうと、勝手に想像していた。が、ふと目に入った短歌は、結構、くだけたものだった。俵万智さんや穂村弘さんたちの御尽力で、短歌の世界も、フレンドリーに砕けて来たんだろうと想像できた。一番最初に目に飛び込んで来たのは、永田和宏さんが選んだ
「なんだみな同じ思いか旺文社赤尾の『豆単』復刻版ある」(四方護)
という短歌。私は、受験生としては、「シケ単」世代。つまり森一郎先生がお書きになった「試験にでる英単語」のお世話になった。西日本では、シケ単と言っていたが、東日本では、でる単だった。マクドナルドのことを、関西では「マクド」、東京では「マック」と言うのと同じ。ちなみに鉄道のプリペイドカードは、関西では「イコカ」(行こか)、東京では「スイカ」(すいすい行こか?)。
 少し上の世代、つまり団塊(その上の世代も)が、赤尾の豆単を使っていた。団塊の世代の方々のボケ防止の能トレ講座では、赤尾の豆単の単語で、クイズを出すのは、百マス計算よりは気が利いていると思う。
「人はいつか死ぬのだ薄いソノシートダークダックスぞうさんも吾も」(竹之内桂)
これも、団塊の世代の実感だと思う。ソノシートというペラペラのプラスチックのレコードもどきのものがあった。私も古本屋で、10円~30円くらいで売っていたソノシートを買って、おもちゃみたいなレコードプレーヤーで、ベートーベンの5番やシューベルトの未完成交響曲を聞いてたりした。
 もう私は、手元にはソノシートは持ってないが、竹之内さんは、保管されているのかもしれない。今、考えると、とんでもなく劣化した音だった筈だが、音が立ち上がって来るだけで、わくわくすることができた。ソノシートなんて、二束三文でも、引き取ってもらえないと思うが、歴史的な価値は、間違いなく存在する。
「ピザの味ソーセージの味牛の味を知るわたし熊でなくてよかった」(伊藤京子)
私は、テレビもネットも見ない。ニュースは、新聞と、あとごくたまに買う週刊誌で知るだけ。この歌は、クマがピザやソーセージ、肉の味を知って、民家を襲うようになったので、射殺されたという事件が、背景にあるんだろうと推測している。クマなんだから、ハチミツと鮭(シャケ)くらいにしとけよと言いたくなるが、環境が激変して、ハチミツもシャケも手に入らなくなってるのかもしれない。
「『レカネマブ』承認された薬の名忘れる前に覚えられない」(杢原美穂)
薬の名前は、まあ知らなくても一向に差支えない。乃木坂とかけやき坂、桜坂とかは、すべて46なんだろうか。グループの名前も覚えられないし、当然、メンバーの名前が判る筈がない。「乃木坂のセンターの娘、めっちゃ可愛いないですか?」と、男子生徒に言われても、「だよね」みたいな、おざなり相槌さえ打てない。
「母さんはもの書きになるには闇が足りないと娘が言う隠せているのだな、闇」(今泉洋子)
 中高時代、万引きしてたことを、自分の子供には言ってない親が、いっぱいいる。万一、子供を堕胎とかしてると、それは言えないだろうが、万引きくらいなら、「実は、あたしも昔、万引きでパクられて。アレって、一人の犯行の時って、結構バレるよね」みたいなことを、フレンドリーにカミングアウトしても、いいような気がするが、親はやはり子供にとって、模範的な善人でありたいらしい。私は、模範的な善人じゃないし、子供もそんなことは思ってないが、絶対に言えないことは、確かにある。
 最近、ふと思ったことだが、漱石の「こころ」の先生は、最後死ぬが、あれは、あそこで主人公を殺しておかないと、漱石自身が、自死していたんじゃないかと、考えるようになった。漱石の研究書なんて、どっさりあると思うが、漱石だって、そう易々と自己の闇のしっぽなど他人に掴まれてはいないと想像している。
「献体の遺骨が届く郵便で時代もそこまで来たかと溜め息」(澤正宏)
これは、馬場あき子さんの選。この歌は、プチ驚きだった。死体を郵便で送ることは、多分、法で禁じられている。が、遺骨になってしまえば、生ものではないし、霊的なものも、現在の科学の常識では存在してないので、郵送で送れるということだと想像できる。遺骨は、やはり遺族なり、献体の関係者が、手で持って、お運びするものだと、私は普通に思い込んでいたが、郵パックとかで、ちゃちゃっと送ってしまう時代が、到来したんだなと、理解した。
「包装紙裏にびっしり帰りたいスマホを持たぬ母の入院」(大野聖子)
これは、佐々木幸綱さんの選。このお母さんは、スマホを持っていたら、スマホのラインに、「帰りたい、帰りたい、帰りたい」と、連呼するんだろうかと、思ってしまった。が、スマホの画面に連呼するより、紙に「帰りたい、帰りたい、帰りたい」と、書いた方が、気持ちが晴れるような気がする。
 私は、男は黙ってサッポロビールの世代だから(あっ、サッポロビールは昔から嫌いで、アサヒビール党だったが)どんなに辛くても、黙って我慢する。まあ、そこは世代というより、個人のキャラの問題かもしれない。
 穂村弘さんが選んだ、たろりずむさんのもうひとつの秀歌は
「取り戻せ和式便所で朝刊を読んでいた時代の活力を」(たろりずむ)
私は、ここ20年くらい、和式便所を利用したことがない。お寺のトイレは、多分、今も和式。考えてみると、ここ四半世紀くらい、お寺にも行ってない。私自身は、和式便所で新聞を読んだ記憶はない。あんなぐらぐらと不安定な姿勢で、小さな活字が追える筈がない。これは時代というよりは、個人のパワーで実現したその昔のタイパorコスパスタイルなんだろうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?