文#9「これまでの人生で、一度も羽布団で寝たことがありません。暖かくて、快適だと家族は言ってますが、贅沢に慣れたら負けだと思っています」

             「文学ノート9」

 朝日俳壇に目を通してみた。
 「最後まで父の拒みし羽蒲団」(渡邊隆)
 羽蒲団を拒否した、お父さんの気持ちは、嫌というほど良く分かる。お父さんは、子供の頃、おそらく薄っぺらいせんべい布団だった。日本は、経済的にゆたかになり、羽蒲団だって普通に買えるようになった。が、子供の頃、せんべい布団で過ごせたわけだから、大人になっても、爺さんになっても、それで過ごせる。羽布団で、ほかほかになったら負け。ゆたかさに慣れたら負け。このお父さんは、物質的なゆたかさは享受しなかったが、その分、精神的なゆたかさはkeepし続けたと想像できる。
 「トーストのバター動かぬ冬の朝」(岡田木花)
 こんな寒い家、今どき、本当にあるんだろうかと、疑ってしまう。そもそも、私は、トースト&バターは、嫌いなので、この句には感情移入できない。ただ、冬の朝が、本当に寒い状態であれば、ウチも、私が、AM3:00に起きたあと、妻がAM5:30に起きて、子供たちの朝食の準備をし始めるまでの間は寒いので、感情移入できる。冬が寒く、それを耐え忍んでこそ、春になった時、「今年も、無事に冬が越せた」と、安堵し、happyになれる。
 「天界に待つ人増えて冬銀河」(加古川市 森木史子)
 加古川市の郊外だと、冬銀河は、まだ夜空に見えるのかもしれない。私が小5、6くらいまでは、四国の高知でも、銀河ははっきり見えた。25歳~29歳の4年間、四万十川の河口の小京都の町で暮らしたが、そこでも、満天のstardustを眺めることができた。東京には、残念ながら夜空がない。が、月は見える。月の満ち欠けを見るのは、一応、楽しみ。高校時代、ギリシア神話を愛読したので、星座なども一応、判別できるが、見えないので、如何ともしがたい。星が好きな人は、東京暮らしは、物足りないだろうと想像できる。
 「雪女どれも男の死ぬ話」(大谷和三)
 男は色欲に迷ってしまうから、まあそのペナルティを、雪女が与えようとしていると判断できる。漱石の小説を読むと、女性が、結構、肚を括っているみたいなケースがある。男たちも、色欲に迷って死んだら、それはしょぅがないと、開き直っていたりする。雪女に取りこめられて死ぬのは、色欲に迷っているわけだから、自業自得。
 校長先生のような、いい歳をした学校の先生が、色欲に迷って盗撮したり、あるいは、性的な事件を犯して、それまで積み上げて来た人生を、チャラにするみたいな事件が、結構、しょっちゅう起こったりしている。意志が弱い先生は、色欲を制御する訓練をすべきじゃないかと、思ったりもする。
「世渡りの拙き身にも除夜の鐘」(青木一夫)
 20代の頃は、京都、奈良のお寺でよく除夜の鐘を聞いた。世渡りの上手な方が、そんな何の利益にもならない、風流なことをすることは、到底、考えられない。30代に入って、教職に就いてからは、もうそんな風流とは無縁になった。だからと言って、世渡りが上手くなったというわけでもない。
 「湯豆腐やどうにもならぬ話され」(佐藤朱夏)
 男たちは、どうにもならない話をする前に、たいがい酔っぱらって、わあわあ騒いでいる。どうにもならない話をするのも、聞くのも、お互いの時間の無駄遣い。それだったら、そんな話を聞かないで、先に酔っぱらったもの勝ち。ひとつの正しい解決法だとは思うが、体の諸器官に負担をかけすぎるので、長生きはできない。
 「冬紅葉まだ恋なんて言ってるの」(鈴木さゆり)
 女性の方が、歳を取っても、気持ち的にも、体力的にも、圧倒的に若いと、自分自身が歳を取って、より一層、痛感するようになった。恋愛が、sexなどとは無縁な、軽いゲームのようなものだとしたら、それはそれで楽しそうな気がする。
 吉祥寺の古本屋に行く途中にラブホテルがある(もうここのみ残ってる。昔は、今のヨドバシの東とか、ドンキの南とかは、ラブホだらけだった)。別に積極的に見たいというわけでもないが、出入りするカップルがいれば、やっぱり見てしまう。年齢的に見て、パパ活みたいなカップルが多く、「うーん、何かなぁ…」とは、やっぱり思ってしまう。エリックロメールの青春映画の老年バージョンみたいな恋愛だったら、ありかなって気がする。が、エリックロメールの老年バージョンを演じるためには、かなり豊富な語彙力が必要。(自分自身も含めて)年寄りたちの語彙力は下がっているし、どっちにしても、フランス映画のようには行かない。
 「肉になる牛磨かれて冬日和」(高田韮路)
 この句は、複数の選者が推していた。客観的に見て、これはいい句なんだろうと想像できる。が、私はこのぴっかぴっかに磨かれた牛が、この後、屠(ほふ)られる過程がリアルに想像できる。作者には悪いけど、生理的にこの句は、自分には無理。牛肉は、食べたことがない。豚肉も食べない。習慣だから、普段は別に気にもしてないが、考えてみると、やっぱり人道的(畜道的というべきか)じゃないような気がする。が、私もごくたまに、鶏肉は食べる。鳥は可哀想じゃないのかと突っ込まれたら、返事ができない。まあ、人間は、エゴイズムを貫きながら、生きて行くのが、宿命なんだろうと、それも割り切っている。「おでん酒つぶしのきかぬ汝と吾」(松本侑一)
 つぶしのきく人は、フグ酒とか、フカヒレ酒とかを楽しんでいるんだろうと思う。が、つぶしのきく人は、それだけで充分、happyなんだから、アルコールが身に沁むってことも、なさそうな気がする。つぶしがきかないからこそ、おでん酒が、最高に美味だってとこも、きっとある。
 「書いてますか恋してますか寂聴忌」(相坂康)
 寂聴さんのような、奔放な恋をした方が、書いて書きまくって、恋愛をopenなものにしてくれたとは、多分、言えると思う。恋愛にエネルギーを注ぐ、女流小説家の背中を見て、恋愛が奔放で、hardで、かつfantasticなものになったと言えるのかもしれない。寂聴さんは、最後は悟りの方面に走った。まあ、それもありだと思う。
 「またひとつ本棚増やす冬隣」(佐藤朱夏)
 もうこれは羨ましいのひと言。部屋が沢山あれば、本棚はいくらでも増やせる。私は、本棚の上にも、天井まで本を積み上げてある。地震が襲って来たら、横揺れでも、本が落ちて来る。打ちどころが悪ければ、命取りになる。が、まあ本につぶされるのであれば、まあ、しょうがないかと、そのヘンは、もう開き直っている。 

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