美#97「学校は人との出会いの場です。友人なり、先生なり、恋人なりに出会わないと、学校は意味を持ちません」

           「アートノート97」

 ルノワールは、子供の頃、音楽も絵も、どちらも好きだったらしい。良く通った教会のオルガン奏者が、後に作曲家として大成するグノーで、グノーは、ルノワールの才能を認めて、歌手になることを勧めた。が、まあ、今でも基本、そうだが、下層階級の貧乏な少年が、音楽を学ぶことは、経済的な援助をしてくれるパトロンが存在してないと難しい。
 ルノワールは、親に勧められて、13歳から陶磁器の絵付けの見習いとして働くようになった。絵付けの参考にするために、ルーブル美術館に通って、18世紀のロココの作品を熱心に学んでいる。
 ルノワールは、晩年「もし婦人の乳房と、尻がなかったら、私は絵を描かなかったかもしれない」と語っている。ルノワールは、女性の裸体が好きだったと断言できる。1870年代に描いた、衣服を着た美しい女性たちの絵の方が、私は、断然、すぐれていると判断しているが(コートールドも間違いなく同じように考えて、ルノワールの『桟敷席』を購入している)ルノワール自身が描きたかったのは、裸体の女性だったので、晩年は、ほとんど裸体の女性ばかり描いていた。
 マネの「草上の食事」がサロンで拒否されたのは、1863年。神話の女神の裸体を描くことは、昔から許されていたが、一般の女性の裸体を描くことは、19Cの半ば過ぎでも、許されてなかった。マネは、そのタブーを破ったと言えるが、「草上の食事」は、客観的に見て、エロいとは言えない。
 18世紀のロココ派のブーシェの描いた「ヴィーナスの勝利」の岩にしなだれかかっているヴィーナスの方が、はるかにエロい。右の乳房が外側に寄り過ぎているので、つい手を添えてもっと中央に寄せてあげたくなる。明らかに股を大きく開いているニンフもいて、尚かつ、エクスタシーに達しつつある表情をしている。どう考えても、マネの「草上の食事」より、ブーシェのこの絵の方が、はるかにエロい。
 ルノワールは、エクスタシーに達する、or notとかには、まったく興味を持ってない。activityとしてのsex抜きで、女性の美しい裸体を描こうとしている。だから、アートとして、認められていると推定できる。
 ルノワールが、陶磁器の絵付け職人として、一人前の仕事ができるようになった頃、機械による新しい絵付けのシステムが導入されて、ルノワールは、職を失った。ルノワールは、近代文明が嫌いだが(ルノワールに限らず、ほとんどのアーティストが、近代化したシステムに嫌悪感を持っていた)自分の職を奪った近代文明を憎むのは、当然だという気がする。
 陶磁器の絵付けの仕事がなくなったので、扇や簾に絵を描く仕事をするようになった。図案は、ルーブルに通って見たロココ調の模様を使った。
 ルノワールは、働きながら、二十歳の時、グレールが主催する画塾に入った。グレールは、エコーデ・ボ・ザールで教えている、厳格なアカデミスムの遵奉者で、その教授法は、旧態依然としていて、学ぶべきものは、ほとんど何もなかったか、ルノワールは、この画塾で、モネ、シスレー、バジールと出会っている。この出会いがなかったら、もっと具体的に言うと、モネの影響がなかったら、1870'sの印象派的なすぐれた肖像画は、誕生してなかったと判断できる。今も昔も、画塾や美術学校というのは、良き仲間たちと出会うために、取り敢えず入学する教育施設だという気がする。
 26歳の時に描いた「ディアーヌ」がルノワールのほぼデビュー作だと言える。ディアーヌ(Diane)は、英語風にいうとダイアナ(Diana)。ギリシア神話ではアルテミス。
 モネは、1863年の「草上の食事」で、批判されたあと、2年後の1865年に「オランピア」を発表し、再び、悪評に見舞われた。が、「オランピア」は、うら若い高級娼婦を描いた作品だし、風紀上からも批判されたとしても、已む得ない。「草上の食事」より「オランピア」の方が、はるかエロい。
 ルノワールが「ディアーヌ」を描いたのは、1867年。神話上の月の女神なので、裸婦を描いても、別段、批判はされてない。ただ、乳房は大きく、ぱんぱんに張っている。乳首も立っている。が、別にエロくはない。乳房の下が、二段腹なのか三段腹なのか判らないが、その無駄の脂肪の塊が、エロさを阻害している。太股から脚にかけても、セクシーな女性のそれではなく、逞しくでかい猟師のおっさんの足だという気がする。こういうおっさん足フェチの男とかは、さすがにいないと思うが、広い世間には、もしかしたら、いるのかもしれない。ディアーヌは、殺しのプロみたいな女性だから、足元には、首を矢で射貫かれた鹿が横たわっている。ディアーヌの表情はリアル。このリアルな表現は、写実派のクールベの絵から学んだと想像できる。背景の樹木はコロー風。ルノワールに限らず、カフェゲルボアに集まった、いわゆるグランブルバール派のメンバーは、程度の差はあれ、だいたいみんなクールベとコローの二人の影響を受けている。
 晩年、ルノワールは赤を多用した。幸福の赤だと、もて囃(はや)されているが、初期の作品は、赤が部分的にほんの少し、使われている程度。「ディアーヌ」だと、矢筒を装着する毛皮の紐に赤が使われている。
 ルノワールは、ポンペイの壁画を見て、赤の魅力に取り憑(つ)かれたらしい。18世紀の人類の最大の発見は、ポンペイの発掘。私は美術集でしかポンペイの壁画を見たことがないが、図版を見ただけでも、たとえば秘儀荘の赤は、おどろおどろしい色だと見える。キリスト教的だとは言えない(ポンペイは79年のヴェスビオス火山の噴火で灰に埋もれた。79年頃、キリスト教は、まだごく一部にしか浸透してない)。
 アジア系のミトラ教のような密教系の宗教と、ポンペイのあの赤は絡んでいる。これは、正直、容易に真似のできるような色ではないと思うが、ルノワールは、あの赤で、裸婦を描こうとした。女性が宗教の対象であると考えれば、まあ、それもありかなという気がする。キリスト教徒がミトラ教の赤を使用するのは、教義的に問題あるのかもしれないが、まあしかし、19世紀の後半あたりは、ニーチェが神々が死んだと宣言するよりも、ずっと前に、実質的には、神は存在してなかったとも思われる。

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