創#605「ガンで余命を宣告することが、本当にいいことなのかどうか、判りません。告知された本人も、家族も間違いなくパニックに陥ります」

      「降誕祭の夜のカンパリソーダー342」

「自分は読書はしませんが、漱石や鴎外、シェークスピアやドストエフスキーと言った著名な作家や、その作家の作品について、一通りの知識は備えています。それは、中2から高2の終わりまで、ほぼ4年間、先輩が文学の話しをしてくれたからです。小説って、恋愛に絡む話しが多くて、頭の中にロマンチックな妄想が次々に浮かび、それで、リアルの恋愛、sexに走ってしまったってとこがあります」と、Mが唐突に言った。
「じゃあ、オマエが結婚し、一児のパパになってしまったのは、オレにも責任があるってことか?」と、私が言うと
「もちろんです。その罪滅ぼしのために、ここに薪を割りに来たんです。ですから、ここに滞在している間は、せっせと薪割りをやって貰います」と、Mは要求した。
「薪を割ることに、異存はないが、聞き手のオマエが、恋愛に走ったのに、語り手のオレが、恋愛に縁がないのは、何故なんだ?」と、私はMに訊ねてみた。こういう非生産的な、ほとんど無意味な世間話をする相手として、Mは、最適の相方だった。
「それは、先輩が神が存在するかどうか、本気で、とことん考え抜いたりするからです。自分の母親は、洗礼を受けていて、クリスチャンです。日曜日にはO駅の傍にある集会所で開催されている礼拝に行ってます。食事の前には、主の祈りを唱えています。まあしかし、私の母親が実践している宗教的行為は、この二つだけです。聖書は、無論、自分のものを持っていますが、母親が自宅で聖書を読んでいる場面など、一度も見たことがないです。先輩は、高2の夏休み、部活or バイトから帰って来ると、例の天井に鳩がいる部屋に引きこもって、聖書を読んでいました。部屋に入らなくても、外の廊下に立っていても、先輩が、聖書を集中して読んでいるオーラが伝わって来ました。先輩は、危険な崖沿いの山径を歩いていても、たいして集中してません。本を読んでいる時と、音楽を本気でlisten toしている時のみ集中しています。聖書を読んでいる時は、とんでもない猛スピードで、頭を回転させて、神が存在しているか否かを、考え続けているんじゃないですか?」と、Mは訊ねた。
「頭が高速で回転してるってことはない。いつも通り、ゆったりだよ。ただ、読書に没頭し始めると、天井の鳩の鳴き声が一切聞こえて来なくなる。無論、実際は、ずっと鳴き続けているわけだから、自分の脳内のどこかの機能が、鳩の鳴き声をノイズとして、キャンセルしてるんだと思う。鳩の鳴き声がまた聞こえ始めたら、つまり集中力が落ちたってことだ」と、私は説明した。
「集中している時、神とコミュニケーションしてたりするんですか?」と、Mは訊ねた。「残念ながらと言うべきか、まあ、どっちかと言うと幸いなことになんだろうが、複数の人格が、同時に現れることはない。読書をしながら、同時に神と語り合ったりはしない。と言うか、神が自分の前に、たとえ幻であっても、人格神として登場したことは、一度もない。登場したら、即座に洗礼を受けて、クリスチャンになる」と、私はMに教えた。
「聖書を読んでいる時は、聖書の物語を信じているんですか?」と、Mは訊ねた。
「懐疑的な姿勢では、物語の中に入って行けない。集中して読んでいる時は、信じている。読書をする行為から離れてしまうと、客観的な理性が働いて、死んだ人間が復活するとかって、やっぱりそれはないだろうと、批判的になる。が、判断しているのはオレの理性だ。自分の理性が絶対に正しいと言い切ることもできない。結局の所、死人が生き返るとか、魂が復活するとか、最後の審判が下って、救われる人間は、神の国に入って行けるとかって事項は、人間には理解できない不可知な問題だ。不可知であっても、信じられる人は、クリスチャンになれば、きっと救われる。オレのように、哲学的にモノごとを、突き詰めて徹底的に考えようとする人間は、救いの世界には、かすりもしないような気がする」と、私は、率直な感想を伝えた。
「徹底的に考え抜く人間は救われないってことですか?」と、Mが訊ねた。
「それは、まあmay be or not may beだが、深く考える人間よりは、浅い所で生きていて、simpleに神を信じている人の方が、救いの世界には、限りなく近いってことは、言えると思う」と、私はMに言った。
「そうすると、自分の母親は、多分、救われますね。それを聞いて、何かちょっと安心しました」と、Mは嬉しそうだった。
「R子さんは、多分、クリスチャンじゃないし、オマエだって、神を信じているわけじゃない。キリスト教の神に縁がなくて、特定の神社の氏子でも、お寺の檀家でもない多くのリアルの日本人は、伝統的なコミュニティが消滅してしまったら、自己の魂の居場所がなくなってしまう。西欧の唯物主義的な物質文明が、次々に襲って来て、スピリチュアルなものが、限りなく薄くなり、物質文明のゆたかさだけを享受する生活になってしまうと、何かあった時、人々はパニックに陥ってしまいそうな気がする」と、私は危ぶむような口調で言った。
「何かって、たとえばどんなことですか?」と、Mは即座に聞き返した。
「たとえば、ガンで余命あと三ヶ月だと宣言されたら、誰だってパニックに陥るだろう」と、私はMに伝えた。
「何故、余命三ヶ月などと宣告するんですか。言わない方が、動揺しないだけでも、患者にはメリットがあるような気がしますが」と、Mは首を傾げた。
「言わないで、患者がうかうか過ごして、三ヶ月後に死んだら、『余命をちゃんと宣告してくれなかったので、人生の最後の時間を有意義に過ごすことができなかった』と、遺族が訴訟を起こすかもしれない。余命をちゃんとあらかじめ知りたい患者だっている。まあ、それに伝えるのが、今のトレンドなんだ。トイレットペーパー買い占めのイベントが起こって、それがトレンドになれば、みんなが一斉にスーパーマーケットやドラッグストアに押し寄せて、買い占めに狂奔する。日本人は、こういうトレンドに弱いんだ。オレは、病院の世話になるつもりはないので、こんなことは、どうでもいいが、普通の人は、あらかじめ考察しておかなければいけない、大問題のひとつだと思う」と、私はMに伝えた。 

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