子どもが生まれたよ

2023年5月18日未明、元気な男の子が生まれました。
おかげさまで母子共に健康です!(ついでに僕も元気です)
僕は帰宅後、一日のんびり家事をしながら過ごして、じんわりと子どもが生まれたことの実感が湧いてきたことに気が付きました。
(ドラマ「コウノドリ」を鑑賞していたので、一人ひとりのお産はまったく異なった比類のないものと理解しつつ)我が家のケースはなかなかの難産だったのではないかと思います。
妻には本当に感謝しています。

 コロナ禍でずっとストップしていたそうなのですが、僕は幸運なことに出産に立ち会うことができました。そのとき浮かんだことをメモしておこうと思います。

①「立会人」という身分の、微妙なしんどさ

当たり前の話なのですが、僕は出産の当事者にはなれません。
生むことも生まれることもできません。
妻の息や、筋肉の震えとして表れている、いわば「切片化した痛み」を僕はただ眺めることしかできません。
痛みの寛解を願って、背中をさすったり膝をおさえてあげたりするものの、陣痛の瞬間瞬間で痛みは変容し続けるのですから、僕にはいつもどこかかけ違えたような、ずれの伴った今一つの手助けしかできないのです。

「何もできないものだ、ただの佇立や傍観、それでよいのだ」とみんな励ましてくれます。
でも、立ち会っているそのとき、ずっと漂っている場違いな感じが、産むことのできない、「産むことから疎外された性」としての自分の男性性を浮かび上がらせるのを感じました。
このマイノリティとしての自分の存在は、医師や助産師のスタッフの皆さんが全員たまたま女性であることによっても強まっているのだろうとぼんやりと思いました。

②反出生主義的赤ちゃんへの説得

そして、1時すぎだったでしょう。
「もう少しなんだけどね、なかなか出ないね」と担当の医師がお産の進行状況を話してくれたとき、僕の心中に「生と死というものはどこかでつながっているのではないか」という突飛なイメージがわいてきました。
赤ちゃんがなかなか生まれないのは、生まれしぶっているのではないか…。

赤ちゃんは生の一歩手前にいます。それはもしかしたら死の世界なのかもしれない。その境い目で彼は生まれ出ることをためらっている。
だから僕たちは(母は)そこへずっと降りて行って、こちらへ来るように迎えるのではないか。「ねえ、こっちへおいでよ。生きるのは楽しいことだよ。」

でもやっぱり赤ちゃんは悩んでいる。「ほんとうにこれは、私が生きるに値する世界なのか?」

この反出生主義的な赤ちゃんとの問答に、「~~だから生は価値がある」というように条件付きの、功利的な説得を試みるのは無理筋だと思いました。
何を言ったところで「そんなのいらないよ」と返すことができるからです。

そうではなくて、未来形でこたえるしかないのだと思います。
あなたが生の実感をどんなときに得られるか、まだわからない。
きちんと考えれば、生きるに値するのかを生まれる前にどうこう言うことはできないというのがほんとうだ。
だから、何にもいえないのだけれど、ただ、一緒に、生きるに値する世界を創りたいよ。

そんなミッションステートメントを「宣言」することはできるだろうと思いました。
そして、その遂行責任が、生んだ人間には伴うのだと覚悟しました。
赤ちゃんはいつも生まれさせられるもの、だからですね。

3430gのビッグ・ベビーがやってきました。
この世界へようこそ!

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