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LCL合宿を経験して考えたこと:概念化の実例・対象化されない経験の残滓・探究にとって自分とは何か。

 春から続けてきた「探究を探究する」LCL本科プログラム。その夏季合宿に参加させていただいた。多くの人の助けがあって、たくさんの学びを得ることができた。みなさん、本当にありがとうございます。
(ちょっと文体がナルシシスティックなものに後退している。それは家事育児の現場でものを考えること・ぼくの言葉で言えば「ファイティングポーズを取る」ことの困難さの現れだ。でも、自己への幻想こそ、ひとり学ぶことの必要条件だとも思える。ちなみに「現在」、語ることを難しくしているのは文体が軽視されていることに原因があり、したがってそこに「実用的な書き方に終始する書くことの指導」へブレイクスルーをもたらすきっかけもあると考えている)

 LCLの合宿については、仲間たちがすてきなレポートをすぐに書いてくださったので、すでに十分満たされてしまったのだが(新しい友だちができるというのは素晴らしいことだ)、だから「必要なこと」はもう書かなくていいという感じがする。周縁的なこと、経験を通じてぼくの心に浮かんだことをメモしておこう。どうでもよい瑣末なことほど、残らないから。

Learning Creator's Lab
https://xtanqlcl.kotaenonai.org/
LCL本科7期
https://xtanqlcl.kotaenonai.org/news/2072/
MOKKI NO MORI
https://mokki.jp/
ちきゅうのがっこう
https://www.tq-school.com/


1 為すこと:活動のほんとうらしさ

 まずアクティビティとして、活動自体がとても楽しかった。Feel℃walk、古民家での夕食づくり、川の整備。言いたいことがいっぱいある…。けれど、それらはかなり実際的で経験的なことなので、できればもう一度誰かひとを誘って、同じ活動を一緒にやりながら、ああだこうだと話したい。気になる方はぜひ一緒にやりませんか。
 3月以来、LCLのプログラムはオンラインで進行してきたのだが、今回久しぶりに現場での活動に参加して、やはり実際に対面で会って話すこと・同じ時間を過ごすことの意味を感じる。僕たちが意識化することのできる現れよりもずっと多くのことが、経験のなかには含まれている。
 そしてプログラムとか体験という名前で提供される、平板で浅薄な「サービス」と違って、オーセンティックだ、と感じた。それはなぜだろう? 活動が「通り過ぎる」ものでなかったから、ではないだろうか。のんびり・たっぷりしていて、すごく前のめりにやってもいいし、傍で見ていてあまりやらなくてもよい、という活動設計の広さや隙を感じたからかもしれない。「通路的」ではなく、「広場的」だったと言ってもよい。

2 解釈:活動をどのように意味づけるか

 それぞれの活動が、同時にメタファーとして、アナロジーとして、ぼくたちにとって大事な意味を持っている。または、ぼくがそれに意味を与える。

① 取り組みが、やり方を教える

 例えば、川の整備について考えてみる。ぼくたちは檜原村の山上にある古民家に宿泊した。その建物のすぐ近くを流れる川を対象のフィールドとして、「水の通る道をつくる」というワークだった(古民家の生活用水はその川から引き込まれている)。ぼくの目には、その川はまさに天然の清流と映ったのだが、実は結構「汚れて」いる。泥と砂の間くらいの大きさの土をシルトと呼ぶそうだが、雨によって山肌が洗われるとシルトが川に流れ込む。水の通り道が十分にあれば、川はシルトを下流へと運んでいくのだが、通り道が堆積した石や木の枝のために詰まってしまうと、流れは滞る。そうした詰まりを人の手で取り除いて、シルトを下流へと流してやることが、今回のワークのねらいだ。
 言葉で説明するとどうも大仰に聞こえるが、やってみると、詰まりを除くと汚れが流れていくことが、ちいさな子どもにだって、直感的にわかる(やはり、説明しないとわからないことは説明してもわからないという感じがする)。
 石を無闇に除けばよいというわけでもない。全体の流れをいつも意識することが大切だ。やり過ぎて一ヶ所に水が集まり、流れが激しくなると不必要に川底を削ってしまうかもしれない。あるいは澱みができると害虫が湧いて、人の暮らしにとっては不利益をもたらすかも。全てはバランスだ。
 意識のなかで、いちどきに手の届く範囲を一つの作業単位として区切る。ぼくはその画面の中で、目につく石を片端から取り除いていく。中にはずいぶん重たい石もある。次第に息がきれてくる。額から汗が流れて腰にずんとした痛みが滲む。でも作業を中断して、川を一段降ったところから先ほど片付けていた辺りを眺めると「迂回路」が見えてくる。たいへんな思いをして先ほど大きな石を動かしたが、わざわざそれをのけなくても水が通ることができたかもしれない。いつでも「もっと少ない労力で道を通すことができるのではないか?」と問うのがコツだと気がつく。そうやって俯瞰した視点と、ある特定の場所に固執しない柔軟さがあった方がいい。限られた労力を(限られていない労力、などないわけだが)、効果的に使うためにはどうすればよいのか。「レバレッジ(てこ)」という言葉がぼくの脳裏に浮かぶ。

② 因果関係を超えるもの

 川ならば水の流れ(やその変化)が見えやすいが、あらゆる地面について「水の通り道」というものの見方・考え方(概念)を適用することができる。
 「ストローだ」と講師の渡部由佳さんは仰る。ストローの飲み口(飲料の出口)が詰まっていれば、差し込み口(飲料の入口)からジュースを吸い込むことはできない。雨水と土壌の関係も同じだ。雨水が流れ去る先が詰まっていては、土壌はそれ以上雨水を染み込ませることはできない。水が山肌を上滑りして、あるいは崖崩れを引き起こしてしまうだろう。
 ここでぼくが面白いと思ったのは、因果関係による一般的な認識枠組みを超えるような、ものの見方を前提とするアプローチがなされていることだ。ふつう、川上に原因があって、それが川下の不都合を結果するものと捉え、川上の原因に手を入れることで川下の問題を解決しようとするものだ。
 だがここでは、影響関係の循環・相互作用が見られる。川下に水の通り道がないために、川上では土壌の保水機能が失われて土砂崩れを生じているが、土砂崩れこそが川を汚し、川下の滞りを激化している。由佳さんは「フラクタル」であると説明されていた(千葉俊二先生がことあるごとにつぶやいていたキーワードでもある)が、これは「部分が全体の自己相似(再帰)となるような構造」を指す。難解な概念だが、経験的には判明だ。例えば水の通り道をつくるワークをすれば、直観的に理解できる。
 上流の環境に手を入れることで下流における水の流れ方に変化が生じる。また、下流の環境にアプローチすることで上流における水の滞りが解消し、別の打ち手が見えてくる。そうした循環がある。これは河川全体の(またはそれに対するアプローチの)構造と相似だろう。
 以上のように、とても…示唆的な経験だったと感じるのだ。少なくともぼくは、例えばレバレッジとかフラクタルという語を、経験的な裏打ちが伴うという深度で再獲得することができた。功利的に・目的論的にいって、経験を通じて概念を獲得できたという意味で、とても豊かな学びの時間とすることができた。

3 活動のあわい:きみ自身は、どう思うんだ?

 ここから、まだ自分の中でも十分に整理がついていないけれど、書いてみたいことを書く。

① 休み時間に反芻するとき、心が動く

 まず何を言いたいのかというと、活動も、もちろん素晴らしく大切なものであるのだが、その前後の隙間時間の雑談や、深夜の自主的な(自然発生的な)対話が、大きな意味を持つ豊かな時間だったということだ。
 例えばぼくにとってたぶん最もインパクトがあったのは、市川力さんを囲んでみんなで対話した深夜の自主ゼミだ。それはぼくにいろんな効果を与えたんだと思う。合宿から帰った後も影響は続いていて、ぼくの中からポジティブな言葉もネガティブな言葉も引き出されたので、面白い、不思議だ、と思っている。その深夜の「ゼミ」では、宮崎駿「君たちはどう生きるか」を話のよすがとして、みんなの価値観や探究についての捉え方を共有し、学びとは何かについて考えたが、それはぼくの中では、学ぶこと・生きることと「善さ」の関係をもう一度考えるきっかけになったと思う。ずいぶん昔の話だが、浪人期のぼくの中では、学ぶことと善さのつながりが、とても切迫的な、重要なテーマだった。そして今現在のぼくにとっては、育児ということを中心に、公私のねじれ?、結びつき、優先順位が問題化している。どのようなあり方がエシカルなのか、と。
 レバレッジ。ぼくにできることはどんどん減っている。だから、「特にぼくがやるべきこと」をやるべきだろう。
 次点で引っかかっているのが、散策の中でどなたかが口にされた「探究の究極のねらい?は自己発見ではないか」という提起だ(やっさんでしたか?)。このことについては、あとで考える。

② ネガも、本質的かもしれない

 そうした「あわいの学び」の方が本当は本質的かもしれない。であるならばそれを再現性のある形で(あるいは再現の確率が上がるように)どうやったら設計できるか、という問い。どんな条件が必要なのか。
 日常の人間関係や認識的処理の連鎖から切断されていることが重要ではないか。「そういうものだろう」という思いなしを一時停止することがまず前提になる。のんびりとした、生活世界(自己保存的な労働)から隔絶した時間の中で、「多少口が滑ったっていい(相手を傷つけない限りで)」という受容的な空気を醸し出すこと。みんなが参加できるような配慮、例えば「付随的な話題」について語ることを通じて、自分を語ること。

③ 探究にとって自分とは何か

A 村上春樹の短編に『沈黙』というのがあって、これはいわゆる「額縁構造」をとる。乗船予定の飛行機が遅延して空港に足止めを食う。道連れの青年がかつて経験した不思議な話を語り始める…。空港がどうのこうのということも、小説の視点人物である「私」も、本筋である「不思議な話」にとっては外在的な付属物にすぎない。でも、それらを省略するのではこの小説の魅力や、リアリティは成立しない。
 目的論や必要性に基づいて物事を考える思考によっては必ず落ちる、こうした「ガワ」の意味を考える。親密な対話に必要な「隔絶」の条件かもしれないし、その時間自体の無意味さが、ある種の効果を持つのかもしれない。
 いずれにせよ、人が自分を語るためには、ちょっとした準備が必要だという感じがする。

B フランツ・カフカの『審判』に「掟の門」という挿話が登場する。青空文庫で読めるので、まず読んでみてほしい。

 私は入ることを許されていないというのに、にもかかわらずその門は私のためだけに用意されたものであると、門番は言う。この「掟の門」をぼくは、「私」「主体性」「心」の逆説的構造をうまくつかんだ話だと思っている。
 私らしさこそが、私が何かをする・究極的には生きることそのものの根本的動機であって、それなくしては生きられない不可欠の前提条件であるのに、それがなんなのか、当の私だけにはわからないというパラドックスがある。
 「私だけ」ということは、もう少し説明すると、他の人には「私」がどんな人なのか判明であるということだ。もちろん、そこでその、「とある他の人」は私について、当面知っていることしか知らないわけだけど、有限であったとしてもとにかく私について何がしかを知ることによって「ああ、あなたはかくかくしかじかの人なのね」と理解は深まるし、知ることを続けていけばやがては飽和・決着・一致する。それは「対象化された人格」が有限のものだからだ。
 しかし、私が私自身を振り返って考えるときには(デカルトよろしく)、構造的にいって、「考える主体としての私」と「考えられる対象としての私」とに分裂し、両者は絶対に一致しない。私にとっての「私」像は常に暫定的な・微妙にしっくりこないものとしてしか与えられない。
 形而上学的なことを言うようだが、経験的には平易なことで、自己紹介で完璧に他者に自分を理解してもらうことは無理だ。「あなたってこういう人なのね」という叙述によって私の全人格を説明し尽くすことができるかといえば、必ずそれへのズレ・そうじゃない可能性が入り込んでくるものだ。
 ぼくたちは私が何か、わからない。だから、探究をしてしまう。探究を通じて見出された外的規定性をぼくたちは、自分自身として引き受ける。たとえば、ぼくは国語科の教員であるし、赤子の父親であり、埼玉県在住である。とりあえずそうした要素・性質を引き受けるが、別に全部捨て去れるし、そうじゃない世界(ぼくがそれらの要素を自分の一部として持たない世界)を想像してみることができる。どんな要素も私自身ではない。私の存在は、私を説明するどんな叙述や限定よりも大きい。
「本当にやりたいことは何か?」や「あなたのあなたらしさは何ですか?」という問いは本当はすごく貧しい。そんなものはどこにもないので、無限に好奇心の渇きが満たされず、ぼくたちは延々と探究させられているのだ。どんなものでも、やったことだけが私自身を汚染し、私の一部だったことになっていく。しかし同時に、どんなことをやったところでついに、それが私の動機を十分に満たして探究の過程を決着させることはできない。それが実存という苦痛だろう。
 だから、生成的であるしかないのだ。まあ、はっきり言って、あらゆることがどうでもいい。だからこそ、気兼ねなく、やってみることができる。
 そして同時に、ぼくたちには、やってみられたものしか、ない。生きているうちに「掟の門」をくぐることはできない。あらゆるものが稚拙で矮小に感じられたとしても、最終的で決定的な、私自身であるような対象は得られないのだ。だから目を背けたくなるようなくだらない「それ」だけが唯一、私の血肉となって私を生かしうるものなのだ。

4 方針の検討:何を為すべきか

 というわけで、ぼくがここで「自分」について言いたかったのは、世間では「好奇心(動機といってもいい)」や「自己実現(キャリア)」が美化されすぎているということだ。その、意識的に統御不可能な側面・吐き気を催すような生々しい脈動の自律や掻きむしりたくなるような無限の不全感みたいなものが忘れ去られている。そうした極小化された「生」が前提になった「選択」とか「指導」とか「面談」とか「深掘り」とか言われてもちゃんちゃらおかしいや、と思っている。
 でも、ぼく自身もそうした磁場に影響されて、悶々と悩んでいる。有用性と説明可能なものだけが対象化されるような世界では、育児は全然役に立たない。純粋なコストと査定されるのだから、育児なんてできるだけ外部化した方が、有利だ。これからのことを考えると、育児は嬉しいけどしんどい、と思う。ぼくはかなりナイーブになっていた。
 この間、読書会の課題本としてジョン・デューイの「経験と教育」を読んでいた。ハッとする表現があったので引用する。

 準備が統制されて目的になる場合は、そのとき現在発揮されるであろう可能性は、仮想上の将来のために犠牲にされる。このようなことが起こると、将来のための事実上の準備は失われるか、あるいは歪められることになる。(中略)われわれはいつでも自分たちが生活しているその時に生きているのであって、ある別の時点で生きているのではない。また、われわれはそれぞれの現時に置いて、それぞれ現在の経験の十分な意味を引き出すことによって、未来において同じことをするための準備をしているのである。このことこそが、長い目で見ると、将来に帰するところの何かになるための唯一の準備にほかならないのである。

ジョン・デューイ、市村尚久訳、『経験と教育』
(講談社学術文庫、2004年)、P74L7-P75L4

 ぼくは現在を将来の犠牲として、みなしているところがある。育児や家事のためにキャリアを諦めている…わけではないはずだ。そうした意識は、歪だと思う。ときどき自分の子どもの自己実現が自分の幸福であると、あたかも自分の分身のように子どもを扱ってしまう親がいるが、それはこうした犠牲の感覚によって味方が歪んだ結果ではないか。
 現在をしっかりと見つめること、その意味や、しんどさや楽しさをよく考えることがとても大切だと、デューイに励まされる気持ちがした。

 お付き合いいただき、どうもありがとう。また色々考えて書いてみます。

(深夜のゼミで力さんが語られている様子を拝見して、彼は文学に立脚した世界認識をもち、分析的に物事に向かう癖がある、と受け取って、勝手に親しみを感じたこともメモしておく)

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