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『John Lennon PLAYBOY Interview』を読み直す

友だちからSNSで「7日間ブックカバーチャレンジ」という企画が回ってきて、最後の1冊に『John Lennon PLAYBOY Interview』を選びました。ジョンが射殺される4か月前の1980年8月、米「PLAYBOY」誌のために行われた生前最後のインタビューです。版元は集英社。奥付を見ると、初版は1981年3月10日になっています。今思うと、日本版の「PLAYBOY」に転載された翻訳記事を死後3か月で急いで単行本にしたわけですね。もちろん当時は、そんな出版界の事情はわからなかったけれど。小学校最後の春休みをすごしていた私は、阪神百貨店の書籍売り場に平積みされていたのを見つけて、母親にねだって買ってもらいました。

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12歳でこの本と出会えてよかったのは、オノ・ヨーコさんに対して愚かな偏見を抱かずにすんだことです。今なら「なんで、そんなこと?」と呆れられるでしょうが、その頃のビートルズ・ファンの間には「ジョンも大好きだけど、ヨーコはちょっと……ねえ?」という半笑い的な空気は確実に存在していた。実際「Kiss Kiss Kiss」とか「Don't Worry Kyoko」とか、アルバムに収録されたヨーコさんの楽曲はどこか奇矯というか、エクストリームというか、ビートルズを入り口にポップスの世界に足を踏み入れたばかりの小学生には、独特の気まずさ、居たたまれなさを感じさせるものでした。

でも、この本に登場するオノ・ヨーコはそんなイメージとはまるで違っていた。聡明で、ユーモアと機知にあふれ、夫であるジョンと深い信頼関係で結ばれた自立した女性でした。5年間の主夫(ハウス・ハズバンド)生活の後、アルバム『ダブル・ファンタジー』を制作中だったジョンは、このインタビューの中で何度も、自分にとってヨーコがどういう存在であるのか語っています。ちょっと長くなりますが、例えばこんなやりとり。

PB ヨーコ。レノンが“主夫”になられたとき、どう思われました?

ヨーコ ジョンと私が外出すると、人が寄ってきて「ジョン、いま何をしているんだい?」って聞いたわ。でも私にはそうは聞かなかったわね。私は女だから、何かをすることにはなっていなかったのよ。

レノン
 ぼくが猫のふんの始末をし、子供に食事をさせているとき、ヨーコはタバコの煙がこもってる部屋で、ボタンをはめられない三ツ揃いを着た男たちと話をしていたんだ。
(中略)
レノン つまりね、ヨーコはジョン・レノンの妻であるけれども、レノンの代理人をつとめられるはずはない、という態度だったんだ。

ヨーコ 弁護士がディレクターたちに手紙を出すときに、コピーを私に送ってこないで、ジョンに送ったり、私の弁護士に送ったりしたのよ。最初のころ、私がどれほど侮辱されたか、話を聞いたらびっくりするわよ。「でも、あなたは法律について無知じゃないですか。ですから、あなたにはお話しできませんな」って調子よ。だから私はこう言ったの。「わかったわ。じゃ、私がわかるように話してよ。私もディレクターのひとりよ」

レノン 連中にはそれが我慢できないんだな。でも、我慢しなけりゃならないのさ。われわれの代理人はヨーコだからね(クスクス笑う)。連中はみんな男だ。ぶくぶく肥って、昼めしにウオッカを飲んで、大声をあげてる男たちさ。訓練された犬──いつでも相手に飛びかかるように訓練された犬みたいなものさ。最近になって、ヨーコが、これまで連中の懐を暖めてた大金をぼくたちの方に廻ってくるようにしてくれたんだ。連中はそうはさせまいとやっきになって抵抗したよ。なぜなら、これがヨーコのアイデアで、ヨーコは女で、ヨーコがプロじゃないからさ。でも、ヨーコはやったよ。そうしたら連中のひとりがヨーコにこう言ったね。「レノンがまたやってるな」。でもジョン・レノンはこの件には無関係だったんだ。

2人の関係は、決して最初から順風満帆だったわけではありません。付き合い始めた当初、ヨーコはジョンの周囲の男たちがあまりにも露骨に自分を無視し、まるで透明人間のように扱うことに深く傷付きます。こんなふうに自尊心を損なわれ続けたら、人としても、アーティストとして“去勢”されてしまうと思い、70年代初めには家からジョンを「追放して」、別居にも踏み切りました。

ジョンもまたヨーコを失うという経験を通じて、それまで味わったことのない寄る辺なさを感じたようです。一時期は酒浸りの日々を送りますが、やがて自分の肌身に染み付いた「男はこうあらねばならない」というマチズモと向き合い、1つひとつそれらを解体していった。2人は生活を立て直し、互いの役割分担をゼロから見直して、やがて息子を授かります。インタビューではこのへんの経緯も赤裸々に語られていますが、自分にとって特に印象的だったのは、ジョンが繰り返し、自分はヨーコから多くを学んだと強調していることでした。

「他人にはそこがわからないんだ。ヨーコは先生で、ぼくは生徒だ。ぼくは有名で、何でも知っているということになっているんだが、ヨーコがぼくの先生だよ。ぼくが知っていることはみんな、ヨーコが教えてくれたことだよ」

もちろん12歳の私は「フェミニズム」なんて言葉も知らなかったし、自律とか尊厳とか言われてもチンプンカンプンだったわけですが、少なくとも本書を読んで、ジョンがヨーコを、1人の人間としてとても大切に思っているということは、皮膚感覚として理解できました。このときの読後感は、彼のイメージに貼り付いた「ラブ・アンド・ピース」のお題目よりずっと切実で大事なものに思えたし、たぶん音楽以外のところでも、自分のものの見方に影響を与えた気がします。

ちなみに、この『John Lennon PLAYBOY Interview』。信じがたいことですが、インタビュアーのクレジットも日本語翻訳者の名前も入っていません。大人になって読み返して不思議だなと思ったのですが、1980年代の初頭にはこれが普通だったんでしょうか。ときに不躾な質問も織り交ぜながら、相手の懐にずんずんと入っていく対話の組み立ては一級品だし、訳文なんて、言葉が生き生きしていて実に素晴らしいんですよ。例えば、こんなくだり。

PB あなたのいうドラゴン・レディに関してずっと否定的なマスコミ報道が続いていたことをどう思っていましたか?

レノン ぼくらふたりとも繊細な人間だから、そういう記事でひどく傷付いたさ。つまり、理解できなかったんだ。人を愛した時、誰かに「あんな女とよく一緒にいられるな」って言われたら、「なに言ってんだ! おれは愛の女神と一緒にいるんだ。ぼくの全生涯を満たしてくれる女性(ひと)と一緒なんだ。なぜそんなことを言うんだ。ぼくがあの女性に恋をしたからといって、なぜあの女性に石をぶつけ、ぼくにはそんなひどいことを言いたくなるんだ?」って言うよ。ふたりの愛がこういう状況を切り抜けさせてくれたんだけど、耐えきれないほどのひどい状況に追いこまれたこともあったな。もう少しで負けそうになったことも何度かはあったけど、ぼくらは、何とかそいつを切り抜けて、いまのぼくらがあるんだ。(天井を仰いで)ありがたい、ありがたい、ありがたい。

もしかしたら、僕が知らないだけで、手掛けたのは有名な翻訳者の方なのかしら? まるで目の前で、ジョンが熱弁を振るっている様子が浮かんでくるような文章ですよね。あと、最後にもう1つ。本書の後半には、ジョンが自作の127曲(レノン&マッカートニー名義のもの、ソロ名義のもの両方)について述べた寸評が収められていて、これが率直というか辛辣というか、読んでいてすごく面白い。例えば「レット・イット・ビー」はこんな感じです。

これは全部ポール。ビートルズとは何の関係もない曲。ウィングスの曲でもいいってやつさ。「明日に架ける橋」から彼はインスピレーションを受けたんじゃないかな。彼はああいうのをひとつ書きたがっていたからね。

ここまでフランクな発言を引き出したインタビュアーは、「ニューヨーク・タイムズ」や「ローリングストーン」などで活躍してきたデヴィッド・シェフ。取材時には何と24歳だったそうです(まじか!)。彼がその後、薬物中毒に陥った息子との経験をもとに「ビューティフル・ボーイ」というノンフィクションを書き、ティモシー・シャラメとスティーヴ・カレル主演で映画にもなったことは、不覚にも今回Wikipediaを読んで初めて知りました。デヴィッドさん、渾身の著書を出す際に、ジョンがヨーコとの愛息ショーンに捧げた名曲「Beautiful Boy」からタイトルを借りたんですね。自分の中で、点と点が繋がりました。

というわけで、「本についての説明はナシで表紙画像だけアップ」というルールに思いきり反して、長々と自分語りをしてしまいましたが、買い物以外にはほとんど出歩かない日々、久しぶりに本棚を見返す時間は楽しかったです。

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