現実を自分の目で見るということ(ジョージア「パンキシ渓谷」にて)
僕は約9年にも及ぶ長い旅の中、この1年間ほどは出たり入ったりを繰り返しながらも基本的にはコーカサス地方の「ジョージア」という国(旧ソ連の構成国で、2015年までは日本ではグルジアと呼ばれていた)に長期滞在しています。
そして去年の夏の初め、その首都「トビリシ」のホステルで、一人の若い日本人女性に出会いました。
彼女は21歳の学生さんで、時間を作っては世界を回りながら訪れた場所の話を記事にするwebライターもしているという、行動力あふれる女性。
今回彼女は、トビリシから北東に70Kmほど離れた「パンキシ渓谷」という場所を訪れるためにここに来たといいます。
パンキシ渓谷。
それは、この時点ですでにかなり長くジョージアに滞在していた僕にとっても初めて聞く地名でした。
それもそのはず、聞けば、そのパンキシ渓谷はなんと「テロリストの巣窟」などとも呼ばれる、ジョージアの中でもかなり特異な歴史を持つマイノリティ地域で、今のところ決して観光地として広く知られている場所ではないようなのです。
テ、テロリストの巣窟…。
まさか、ここジョージアにそんな場所があったなんて…。
でも、彼女の話によると、テロリストの巣窟と呼ぶ人がたくさんいるのは確かだけど、現実としては、それはあくまで誤解や風評被害で、実際には今パンキシはそんな場所ではないとのこと。
そして彼女は半年ほど前に実際すでに現地を訪れており、その時の話や渓谷の歴史を記事にしてネットメディアにアップもしていました。
そんな彼女の話を詳しく聞くうちに、僕自身もパンキシがテロリストの巣窟なんかではないということはよく理解できたんですが、
それだけじゃなくて、同時に僕はパンキシという場所そのものにも俄然興味を持ち、僕も一度そこを訪れて、自分の目でも色々見てみたいと思い始めたんです。
そして、その思いは日に日に強くなり、約1か月後、他の旅の予定を終えてトビリシに戻ってきたタイミングで、僕はそのパンキシ渓谷に一人で向かうことにしたのです。
というわけで今回は、僕が去年の7月末に訪れたジョージア北東部のこの「パンキシ渓谷」という場所について、みなさんにもお話ししたいと思います。
まず、パンキシのことを少しでも知ろうと思うと、その歴史から説明しないわけにはいきません。
歴史問題?
なんか難しそう。
そういう人もいるかもしれません。
でも大丈夫。
僕だって同じです。
僕は、この世界旅に出るまでビックリするぐらい世界の歴史や地理について何にも知りませんでしたし、
今回の話も全て、人に聞いたり自分で見たりして初めて知ったことばかりなので、決して偉そうなことは言えません。
なので今回は、旅に出る前の何も知らなった僕に向けるつもりで、なるべく分かりやすく書いていきたいと思います。
パンキシ渓谷の歴史
まず、パンキシ渓谷は、ジョージアの北東部、ロシア国境近くの山あいに位置する渓谷なんですが、
実は現在ここは、ジョージア国内でありながら、元来のジョージア人ではなく、「チェチェン人」たちが暮らしているという珍しい地域なんです。
チェチェン人。
僕もかろうじて名前だけは聞いたことがありました。
彼らはそもそも、ロシアの南西部、ジョージアとの国境沿いに位置する現在の「チェチェン共和国」に住む、北コーカサス地方の先住民族の一つです。
彼らは、イスラム教を信仰しています。
そして、その昔、領土を広げるロシア帝国に周辺地域のほとんど全域が併合・征服された時にも、チェチェン人は、そのイスラムの組織力や結束に支えられて、頑なにロシアの支配に対する抵抗を続けました。
でも、その抵抗も虚しく、結局チェチェンはロシア帝国に併合されたんです。
現在のチェチェン共和国も、国という名前は付いていますが、これは国際法上のいわゆる「国」ではなくて、あくまでもロシアを構成する共和国の一つであり、ロシア内の一部の地域という解釈です。
そんな中、200年ほど前に、そのチェチェン人の一部がコーカサス山脈を越えてジョージア側のパンキシ渓谷までやって来て、この地に小さなコミュニティを作り定住し始めました。
彼らはここでは「キスト人」と呼ばれ、これが現在のパンキシ渓谷のルーツとなったわけですが、
とはいっても、そこからのストーリーはそんなに単純なものではありませんでした。
まず、チェチェン本土では、ロシア帝国併合後も、ロシア革命が起こりソビエト連邦になった後も、ソビエト連邦が崩壊して今のロシアになった後も、
結局ずーっとずーっと彼らは自分たちの独立を目指してロシアに強く抵抗し続け、多くの犠牲を伴いながらも終わることなく戦い続けてきました。
これは、彼らがロシア内ではマイノリティであるイスラム教徒であるということももちろん大いに関係してると思いますし、それこそ自分たちのアイデンティティをかけた深い戦いなんだと思います。
でも、その思いは強くとも、大国ロシアにもチェチェンを手放したくない様々な思惑があり、残念ながらチェチェンの独立は未だにずっと叶っていません。
特に1994年と1999年には、それぞれ第一次・第二次「チェチェン紛争」と呼ばれる、独立派とロシア側の大きな戦争も勃発し、これらの戦争では一般市民を含む数十万人ものチェチェン人が犠牲になってしまいました。
(第一次チェチェン紛争におけるチェチェン人戦士たち)
そんな中、紛争中は、戦火を逃れるために多くのチェチェン難民家族が、同じチェチェンのコミュニティであるキスト人を頼りに命からがらパンキシ渓谷までやって来たのです。
そして、キストの人々はそれを受け入れ、コミュニティは一気に膨らんだんですが、ここから話は深刻化していきます。
まず、チェチェン紛争は、一次・二次と長い戦いが続くにつれ、チェチェン内ではそれがイスラム教の聖戦(ジハード)だとして大きくなり、次第にいわゆる「イスラム原理主義の過激派」も国外から流入・台頭・浸透し始め、
やがて紛争はテロなどを使ったゲリラ戦と化していきました。
そうなってくると、チェチェン独立派は紛争当初は各国から支援を得ていたものの、世界的な「テロとの戦い」という流れの中で、チェチェン紛争もその一部だとみなされることが多くなり、やがてアルカイダなどの国際テロ組織との関係なども疑問視され、次第に孤立無援になっていきました。
もしかしたら、みなさんの中でも、「チェチェン人=テロリスト」などという漠然とした怖いイメージを持ってる人もいるんじゃないでしょうか。
そんな中、第二次チェチェン紛争の最中には、難民家族に紛れ、チェチェン人ゲリラも多数パンキシ渓谷に逃げ込んだじゃないかという噂がロシア側から広がりました。
さらには、パンキシには、チェチェン人だけじゃなくて、アフガニスタンのテロリストや、ついには「ウサマ・ビン・ラディン」までもが潜伏しているなどという過激な報道までなされる状況になり、
当時の世界的なイスラム懐疑の風潮も相まって、パンキシ渓谷は、テロリストやイスラム武装勢力の巣窟であるという烙印を世間から押されたのです。
ただまあ、ビン・ラディンは行き過ぎだとしても、当時のパンキシでは実際にチェチェン人ゲリラの流入があったようで、
2002年にはついに、そのゲリラ掃討目的で、ロシア軍による空爆までもがこの渓谷に対して行われてしまいます。
さらに2004年には、自国ジョージアの治安部隊による掃討作戦も行われ、ようやくパンキシでのこのチェチェン人ゲリラ問題は沈静化したんですが、
ここで僕たちが忘れてはいけないのは、問題はあくまでもゲリラなのであって、キスト人やチェチェンから逃れてきた難民のほとんどは一般の善良な市民で、むしろこれらの紛争の被害者であり、テロリズムや武装勢力とは一切関係ないということ。
それなのに、風評被害は止まることなく、それ以降も、まるでパンキシに住む人全員がイスラム過激主義者であるかのような汚名を着せられたわけです。
そして、パンキシにとってようやくチェチェン紛争が過去のものとなり、ほとんどの難民がもうここを出てヨーロッパなどに向かった後にも、また新たな問題が起きてしまいます。
それは、2011年以降の「シリア内戦」でのこと。
残念なことに、あの内戦において、パンキシ渓谷の多感な若者が数十人シリアに向かい、ISの戦闘員となってしまったようで、
そのことがまたメディアによって強調され、これによりパンキシはやっぱり「テロリストの巣窟」だという烙印が再び決定的になったのです。
そして近年、月日は流れ、今度こそ問題は過ぎ、今のパンキシ渓谷は平和そのもので、キストの人々は犯罪などは皆無の状況で暮らしているといいます。
でも、その現実とは裏腹に、未だに「テロリストの巣窟」という烙印は消えておらず、周りからは偏見を持たれ恐れられ続けているらしいのです。
…と、
長くなりましたが、そういったパンキシの歴史を、大まかな概略として僕は冒頭で話した若い日本人女性から聞かせてもらい、俄然興味を持ち、自分の目でもそのパンキシの現状を確かめてみたいと思ったわけです。
そしてここからは、ようやく僕が自分自身で見聞きした話を中心に書いていきたいと思います。
(さて、みなさん、ここまで説明が長くて疲れたでしょ?ここから先まだまだ話は続くんで、一旦ここらでお茶でも飲んで休憩しましょうね。笑)
パンキシ渓谷旅行記
というわけで去年の7月30日、僕は首都のトビリシから北東に70Kmほどのパンキシ渓谷へ向けて出発しました。
まず、パンキシへは、トビリシからローカルの乗り合いワゴンをいくつか乗り継いで向かうんですが、
やはり観光地として知られている場所ではないので、ネットやガイドブックなどにも一切行き方などの情報はなく、自分で地元民などに聞き込みをしてたどり着くしかありません。
ただ、聞き込み中、同じジョージア内だというのに、パンキシの名前を知ってる人の中には「なんであんな場所に行くんだ。あそこは危険だ。」と答える人がいて、
それはなんと、パンキシまであともう数十キロしか離れていないような近郊の町ですら同じことでした。
やはり、一度人の頭に植え付けられたイメージや烙印というものは、中々消えることはないようです。
それに加えて、ジョージアでは国民の大多数がキリスト正教を信仰しているので、圧倒的少数派のイスラム教徒であるパンキシの人々に対してどうしても差別意識や偏見は生まれやすいのかなと、個人的には感じました。
とにかく、車の乗り換えに少し手こずりながらも、トビリシを出発して半日ほどで、ついに僕は目的の地「パンキシ渓谷」に到着したのです。
ただ、本当のことを言うと、どれだけ偉そうに分かったようなことを語ったところで、ここに来るまでの僕にもパンキシに対する漠然とした不安や緊張みたいなものは正直少しだけありました。
でも、実際に到着して、このあまりにも牧歌的な風景を目の当たりにすると、僕の不安などいかに杞憂に過ぎなかったかを再確認。
やっぱり聞いていた通り、パンキシの今が本当に平穏な状況だということがよく分かりましたし、
それどころか、過去とはいえ、この場所にそんなに大変な歴史があったってこと自体が信じられないほどでした。
さて、パンキシには現在いくつかのゲストハウスがあり、僕はその中の「Nazy’s Guesthouse」という所で結局この後5日間もお世話になったんですが、
僕自身の経験を含め、オーナーのナジーさん(30代女性)にもたくさんのお話を伺ったので、みなさんにもさらにパンキシの「今」について詳しくお話ししたいと思います。
まずパンキシ渓谷は5つの小さな村で形成されており、全ての村が一本のメインロードと黄色いガスのパイプラインで結ばれています。
現在この5つの村に約5000人ほどのキスト人(元チェチェン難民を含む)が暮らしており、宗教は先述の通り、ほぼ100%がイスラム教です。
とはいえ、彼らは、200年ほど前にキスト人がこの渓谷に住み込む以前からここで信仰されていたジョージア正教というものを決して否定しているわけではなく、それはリスペクトすべきものだとして、例えば当時の教会が今でも大切に保存してあります。
キストの人たちは、もちろんジョージア語も話せますが、基本的にはチェチェン語で生活しています。
到着初日、そのあたりのことをよく分かっていなかった僕は、現地の人ととりあえずわずかなジョージア語と英語で交流を図ろうとしてたんですが、珍しいアジア人の訪問ということもあるのか、なかなかうまくいきません。
でも、次の日から僕がチェチェン語の簡単な挨拶をいくつか覚えて、それで彼らに話しかけ始めた途端、状況は一変しました。
アジア人が話す突然のカタコトのチェチェン語に、みんな一瞬驚いた顔を見せるも、そのあとは必ず満面の笑顔になって、とても温かい対応をしてくれるようになったんです。
やはり、ここはジョージアであってもただのジョージアではなく、あくまでもチェチェン民族のコミュニティであり、たとえ旅行者であってもそこにはちゃんと一定のリスペクトを持つべきなんだと再確認しました。
ただ、パンキシの生活は決して豊かなものではなく、生活のほとんどが、ロシアや他の国への出稼ぎやその仕送りでまかなわれています。
若い人たちが新しい仕事を得る機会もほぼ無く、失業率はなんと驚きの95%。
農業に力を入れようにも、渓谷はそこまで広くないので、農業を拡大するような余地はありません。
そしてパンキシには、工場や海外からの投資も一切ないのです。
そんな中、こういった状況を好転させようと、7年ほど前からキストの人たちは「観光」に力を入れ始めました。
観光業なら上手くいけば永続的な収入が見込めますし、何より、観光客に実際に自分の目でパンキシを見てもらうことによって、少しでも世の中の誤解や汚名を晴らせるかもしれません。
そして女性たちが中心になって立ち上がり、お互い協力し合い、パンキシに自宅を改良したホームステイ型のゲストハウスを立て始めたのです。
でも、もちろんそれも、順風満帆なものではありませんでした。
実は、僕が泊った「Nazy’s Guesthouse」のナジーさんこそが、このパンキシ渓谷観光地化のリーダー的存在の女性なんですが、
彼女はパンキシで生まれ育ち、5年間ジョージアの大学で法律を学び、首都トビリシの市庁舎で2年ほど勤めた後、この故郷に戻り、自宅を改装してパンキシで初めてのゲストハウスをオープンしました。
彼女は言います。
「トビリシにいる頃、空爆や軍事的な衝突、そして汚名や差別、私はこのパンキシの現状を外から見ていて、もうどうしても居ても立っても居られなくなりました。
トビリシにいてはいけない。
私がパンキシを何とかしなくちゃ。
そう思いたって、全ての仕事を辞めてここに戻ってきたんです。
これは私の人生の集大成とも言える挑戦でした。」
でも、彼女の挑戦に、初めは誰もが懐疑的で、悲観的でした。
ジョージア政府だって同じです。
一切サポートなどはしてくれません。
だから彼女は、全てを自分で行ないました。
彼女はジョージア中を回って他のゲストハウスから色んなことを学び、
パンキシの他の家も同じくゲストハウスとしてオープンできるよう献身的に手伝い、
ウェブサイトを作り、マーケティング資料を作成し、地元の観光協会を味方につけるために様々な努力を重ねたのです。
ただ、いくらアクションを重ねても、結局何年もの間、観光協会からは何の反応もありませんでした。
そして、ようやくあちらから最初の返答があったのは、なんと4年も経った後。
その時彼女は尋ねました。
「なんで、返答までこんなに時間がかかったのか」
って。
すると、彼らはこう答えたのです。
「私たちはずっとパンキシが怖かったんだ」
ナジーはまた、こんな思い出も語ってくれました。
「10年ほど前、私が大学生だった頃、一人の男子生徒が私に質問してきて私がチェチェン人だってことが分かってからは、みんなが私を恐れました。
私が銃を持ってるってわけでもないのに。
ただの一人の女なのに。
そんな私が一体何をするっていうの?
そして一体何ができるっていうの?
まさか、彼らは私に殺されるとでも思ってるんでしょうか。
でも、彼らにとっては、私がイスラム教徒でチェチェン人ってだけで、もう十分なんです。
チェチェン人ならやりかねないって。
そして、そういうストーリーの方がきっと彼らの中の刺激心を満たせるんでしょう。
だから私も冗談で言ってやりました。
そうよ、私はいつでもあななたちを殺せるわよ、って。
そしたら突然、教室中が大パニック。
最初に私に質問した男の子は、走って教室から逃げて行きました。
ほんとにそういう世界なんです。」
そんな世界でも、その後彼女は強い意志でたゆまぬ努力を続け、その甲斐もあり、2013年には年間125人だった観光客も、毎年少しずつ数は増え続け、今では年間1000人ほどの観光客がパンキシを訪れるようになっています。
もちろんそれは、まだまだ決して多い人数ではありませんが、今やパンキシは少額融資という形で政府から支援を受けられるようにもなったのです。
これは大きな大きな前進です。
(Nazy’s Guesthouseで毎日いただける、ナジーさん手作りのキストの郷土料理たち。全部美味しい。)
さて、このあたりで本当は、そのナジーさんが写っている写真を載せたいところなんですが、実は今回僕は彼女の写真は一枚も撮っていません。
なぜなら、それが彼女の意思だからです。
パンキシはずっとメディアに翻弄され、それによってたくさんの汚名を着せられてきました。
1990年代にチェチェン紛争が起きた時には、取材のためにたくさんの記者がパンキシにまでやって来ましたが、彼らがキストの人々のことを知るために実際に時間をかけることは決してなかったし、
それどころか、ニュースや報道はネガティブな固定概念を世間に広め、間違った情報ばかりを再利用し続けました。
そして、多くのジャーナリストたちも、ずっと真実ではなく、周りが求めるショッキングな内容ばかりを追い求めてきました。
ゲストハウスを始めた当初は、ナジーもメディアの力を借りなければいけないと思い、そんなジャーナリストたちにも協力していたんですが、
結局一向に真実は書かれず、ことごとく裏切られ続け、ネガティブでショッキングな話ばかりを広げられ続けました。
そうして彼女は、ジャーナリストたちをもう自分のゲストハウスに迎え入れることをやめ、
さらには、今後一切自分の写真も誰にも撮らせないと心に決めたのです。
そして、それは他のパンキシの人々にとっても同じことで、以前は彼らは当然のように外国人に対して警戒心が強く、自分たちの写真がなるべくネガティブな印象操作に使われないように、多くの人が写真を撮られることを拒否してきました。
でも、最近では状況は変わり、彼らも外国人観光客に対しては少しずつ警戒心を解き、自分たちのコミュニティに客として歓迎するということに慣れてきたようなのです。
僕はストレートにナジーに聞きました。
で、実際のところ、今回僕はナジー以外、パンキシの人たちの写真を撮ってもいいんだろうか、って。
すると、
あちらが嫌がらなければ、もちろん何の問題もない。
でも、特に女性やお年寄りに関しては、やっぱりまだ、それはそんなに簡単ではないかもしれない。
とのことでした。
そういうわけで、今回僕は、パンキシを実際に訪れたっていうだけでも良しとして、人々の写真に関してはかなり難しいかもしれないとある程度覚悟をしていたんです。
でも、いざフタを開けてみると、パンキシ滞在中、ありがたいことにほんとに多くの人が快く写真をOKしてくださって、僕はたくさんキストの人々を撮らせてもらうことができました。
もちろん、僕がちゃんとリスペクトを持って行動し、さっき言ったみたいに、なるべく簡単なチェチェン語で挨拶していたっていうのも大きいと思うんですが、
とにかくみなさんビックリするぐらい僕に優しくしてくれて、おかげさまで僕は、キストが本来持っているという深い「おもてなし」の伝統を肌で感じることができました。
時代は確かに少しずつ変わってきているのかもしれません。
というわけで、ここからは、そんなキストの人々を中心にたくさん写真を載せていきたいと思います。
伝統的なキスト人男性。おヒゲが素敵。
村を歩いてるだけで、コーヒーをくれたり、色んな人が優しくしてくれます。
コーカサス地方でよく見かける、旧ソ連時代の車「ラーダ」。
ドミノ遊びに興じるおじいちゃん達。
点数を数える道具は、日本のそろばんみたいな形。
ある日僕はマウンテンバイクを借りて、渓谷の奥の方まで行ってみました。
馬!馬!!
渓谷の奥ではたまたまキスト人家族のピクニックに遭遇したんですが、なんと彼らは急に自転車でやって来たこんな訳の分からないアジア人をそのピクニックに招待してくれたんです。
ほんとに温かいおもてなし!
感謝しかありません。
その日の朝しめたばっかりの羊肉をバーベキューに。
バーベキューの他にも、色々郷土料理をご馳走になりました。
野草を挟んだパン。
自分たちが育てた果物で作った、おばさんたち手作りのジュース。
ありがたいことに、女性の方々も快く写真撮影に応じてくれました。
また別のある日は、ビラル君という地元の高校生が、パンキシを色々案内してくれました。
ビラル君の日課は、公園の遊具を使っての筋トレ。
アメリカ人の財団によって設立された英語学校の先生たち。
道で会う度に仲良くしてくれたおばあちゃん。
一体この渓谷のどこが「テロリストの巣窟」なんでしょうか。
石やレンガを積み重ねて作られた、パンキシで一番大きなモスク。
1日5回のお祈り時間の呼びかけである「アザーン」を詠唱する男性。
毎週金曜日、このモスクでは、キストの女性たちによる「ジキール」という儀式が行われるんですが、光栄なことに、その儀式にも招待いただき、撮影をさせてもらいました。
ここには、いつも道で会うあのおばあちゃんもいて、ほっこりしました。
貴重な儀式の様子は、是非動画でご覧ください。(スマホで撮ったので画質はご勘弁を)
最後にもうひとつだけ、あのゲストハウスオーナーのナジーさんが最終日の夜に語ってくれた話を紹介したいと思います。
僕は彼女が涙ながらに語るこの話を聞いて、今回の話をちゃんと書かなくちゃと決意しました。
「シリアで内紛が起こった時、16歳から20歳ぐらいまでのパンキシの若者たち数十人が実際にシリアに向かい、ISの戦闘員になって亡くなってしまいました。
私には彼らがシリアに行った本当の理由というのは分かりません。
でも、10代後半の一番多感で難しい時期、彼らは自分たちの未来がしっかり見えてなかったでしょうし、若い自分たちの力を持て余してたのかもしれないし、チェチェンの歴史なども含め、残念ですけど色々あったのでしょう。
ただ、メディアはその時、パンキシにあるモスクは全部アルカイダなどの組織がお金を出して建てていて、若者をシリアに向かわせてテロリストにするために洗脳教育している、なんていう報道を何度も繰り返しました。
でも、もちろん、そんなのは全部嘘。
彼らは、そういうことがあったほうがストーリーとして面白いし、受け手が喜ぶから、結局いつもそういう方向に偏向を加速させていくんです。
彼らにとっては、それが真実かどうかなんて大きな問題ではありません。
実際、シリア内紛の時、他のヨーロッパの様々な地域からも数え切れないほどのISの戦闘員が出たわけです。
でも、メディアはそちらについてはほぼ触れないで、ただただ記事として面白いという理由だけで、この小さなパンキシだけに焦点を当てました。
ただ、私たちがチェチェン人で、チェチェンという名前を持っているというだけで。
そして、私たちがイスラム教徒であるというだけで。
まさに、こういう現実があるからこそ、私はゲストハウスを立ち上げ、少しでも多くの観光客にここに来てもらえるよう努力しているんです。
私たちは、他の人と同じ、ただの普通の人間です。
とても平和で、小さなコミュニティ内で生きているだけです。
実際にここに来て現実を見てもらえれば、それが分かってもらえるんじゃないかって。
私は、ブロガーさんだろうが、なんだろうが、ここに来たお客さんに対して、良い内容の記事だけを書けなんてお願いは絶対にしません。
ただただ、自分たちが経験したことを正直に書いて欲しいと常に思っています。
それが一番大切なことで、真実を伝えることが状況を変える一番の方法だと信じているから。」
と、
長くなってしまいましたが、ここまでが今回の僕のパンキシ渓谷旅行記です。
この旅行記で、みなさんに少しでもパンキシ渓谷という場所の「今」を伝えることができたでしょうか。
そして確かに、世の中には、これが自分の意思や考えだって自分自身では思い込んでいても、実際は誰かの意図や世間の空気によって無意識に自分が動かされているってことが往々にしてあるんじゃないでしょうか。
僕自身も、今回の訪問で、何事も自分の目で見るっていうことの大切さ、自分の頭で考えるっていうことの大切さを改めて学ばせてもらった気がします。
ナジーさんの最大の願いは、キストの若い世代が今後ここに残って、観光に力を注ぎ、パンキシを支えていくこと。
つまりは、パンキシの未来は彼らの手にかかっているのです。
これからのパンキシの未来がどうか明るいものでありますように。
みなさん、こんなに長い文を最後まで読んでいただいて、本当にありがとうございました。
今回、トビリシのホステルで出会い、最初に僕にパンキシ渓谷のことを教えてくれた高本穂乃花さんに心から感謝します。
彼女が書いたパンキシについての記事が、ものすごく分かりやすくて素晴らしいので、是非こちらもご一読を。
https://www.ganas.or.jp/20190112georgia/
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