「足るを知る」について妻から学んだこと

 最近、人との集まりの中で楽しくコミュニケーションするのが難しくなってきているように感じる。コロナ禍も一段落した感があり(本当はまだまだ気を抜いては行けないのだろうけど)久々に会おうよと声をかけてもらえることが増えてきて、ありがたいなと思いつつ、いざ会ってみるとうまく話を切り出せなかったり、相手の話にうまく相槌を打てなかったり。特に、はじめましての人がいる集まりとかで、そうである。昔から人付き合いが得意な方ではなかったが、それでも頑張って話しかけたり、あるいは話しかけてくれた人と交流を深めようとしたりしていたけれど、自粛期間に言葉と表情が凝り固まってしまったのか、うまく相手と距離を縮めるコミュニケーションをとれない。

 その分、お家時間で家人と過ごす時間が増えているわけなので、妻とのコミュニケーションが多くなったかといえば、そうでもなく。妻との会話は、本当にたわいのないものばかりで、ずっと喋って盛り上がれるわけではないので気づいたらテレビを見ながらダラダラして。だが、お互いに言葉がでなくても、ストレスにはならない。

 妻は、一緒にいて安心感のある人である。いつもニコニコしていて、自分で楽しみを見つけれられるタイプである。Amazon Primeでお気に入りの配信(最近はバチュロレッテ)を見られればご満悦。柿が美味しいねと近所の八百屋で買ったやつを頬張り、お腹いっぱいになればすぐ横になって幸せそうに寝息を立てる。日々小さな楽しみを自分で見つけてきて自分で実現させている。「私、自分の人生に満足しているもん」と、言っていた。「究極、信じられるのは自分だけ」とも言っていた。猫みたいだなと思う。

 私は自分自身に対する不満を感じる事が多いタイプだ。こうやりたい、こう振る舞いたい、というのが実現できない時、どうしても自己嫌悪を感じてしまう。妻と対比してみると、自分はその「有りたい姿」という思い込みが強すぎようだ。一方で失敗を恐れる気持ちも強い。つまらない話をしてしまうのではないか、トンチンカンな受け答えになってしまうのでないか、と。話し相手が魅力的に映るときは特に、僕はその人の知識や経験に畏敬の念を感じて、体が固くなってしまう。どっちつかずの中途半端な行動が固定パターン化してしまっていて、自分が心地よく過ごせるように行動することができていない。

 まぁ悪いばかりじゃなくて、反省があるから進歩しようと努力するわけなのだけれど。この文章だって、「うまいこと話したり受け答えしたりできないのは、自分が日々の体験を脳みそを使って整理して、お話できる題材とあたまを用意できていないからじゃないか」と思ったからで、まずは文章化して考えをまとめることから始めみたからである。日々、一緒にいる妻との生活の中で、自分が学べることがあるはずじゃないか。

 おそらく妻だったら、そもそも自分が楽しくなかったら、無理して集まりに参加したりしないだろう。付き合いでどうしてもということがあっても、必要な範囲内でしか行かない。そして、必要なとおもう条件もゆるいのだろう。ずっと付き合い続けなきゃいけない人でも、半年に1回あっとけばいいんじゃない、なんて。あるいは、集まりに顔を出しても、話して楽しい人としかしゃべらないし、つまらなくなったら帰る。猫みたいに。自分も次の機会にそれを実践してみようと思う。

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