見出し画像

すぐに「わかった」と思うな

今日はうまくまとめられるか自信がないのですが、なんとなく思っていることを文章にしてみたいと思います。

なにかものごとを見て「はいはい、そういうことね」と思う人と「うーん、まだわかんないなあ……」と思う人がいます。

誰かの話を聞いて「はいはい、わかるわかる」と思う人と「なるほど、でもほんとはどういうことなのかな?」と思う人がいます。

「ものごとを理解しましょう」「相手のことを理解しましょう」と僕らはいろんなところで言われてきました。当然ながら、理解しようとする姿勢は大切です。

でも前者のように「わかったつもりになること」「簡単に理解した気になること」はちょっと危険じゃないかなと思うんです。

もちろん「理解してはいけない」ということではありません。理解しようとするのですが「わかった」と思っても「さらに奥に何があるのか」を考えたほうがいいのではないか、ということです。

表面上はわかったつもりになっても「その奥に何かがあるのではないか?」「その先に何かがあるのではないか?」という「恐れ」に似た気持ちをきちんと抱くこと。

これってけっこう大切なんじゃないかなと思うんです。

安易な「わかった」は失礼になる

たとえば僕はデザインのことを深く勉強したことがありません。編集者なのでデザインのことは多少はわかっているつもりですが、完全にわかったとは到底言えない。

だからデザイナーさんと仕事をするときは「自分はデザインがわかっていない」という前提で話します。もちろん編集者として、読者の目線、一素人としての目線はお伝えしますが、専門的なデザインの領域には踏み込まないようにしています。もし踏み込まざるを得ない場合でも最大限尊重するようにしています。

デザインが上がってきたとき「ここ、文字大きくしてください」「ここ、別の色でおねがいします」などと平気で言える人がいます。デザイナーさんとの信頼関係ができていたり、そういう物言いを許せるデザイナーさんならそういうやり取りもありなのかもしれません。ただもし「自分はデザインのことがわかっている」という勘違いをして、そういう言い方をしていたら危険だなと思うわけです。

デザイナーさんは、あらゆる角度から考えてそのフォントの大きさにしています。時流や他のデザインとの兼ね合いでそのフォントの大きさを選んでいるかもしれません。色もあらゆるシミュレーションをしてその色を選んでいる。ひとつ変えれば全体の世界観も崩れるでしょう。

そこまで理解をしてあえて進言するならいいかもしれませんが、そこをわからずに無邪気に発言することは危険です。「わかった」という前提で相手の領域に土足で入り込むことは失礼にあたると思うんです。

フォントの種類、フォントの大きさ、色、文字の置き方……さりげないそれらの選択の奥にはいろんな想いや哲学、法則などこちらから見えてない世界があると思うのです。もしかしたらそこまで深いことではないというケースもあるかもしれませんが、僕はなるべく「さらに奥に何かがあるはずだ」という畏怖の念を持って打ち合わせにのぞんでいます。

「その奥に何かがあるはずだ」。つねに僕はそう思っているので安易に「わかった」とは言えないわけです。

安易に「わかった」と思ってしまうと、それ以上調べたり考えたりすることもなくなります。よって学ぶ機会も減ってしまいます。

つねに「このものごとの奥には何かあるはずだ」「この人はさらに先の何かを考えているはずだ」と思っている人は、すごく観察するようになりますし、さらに学ぶことができるはずです。

基本的に、他人のことはわからない。世界のことはわからない。

僕はなるべくその姿勢でいたいのです。それが学ぶ姿勢になり、相手をリスペクトすることになると思っているからです。

「わからない」から深く知ろうとする

僕は著者や書き手の候補に会いに行くときも「簡単には理解できない」と思って行きます。

当然理解しようと思って、事前に著書や記事を読んだり、その人のSNSを見たり、あらゆる情報に目を通してから行きます。でもそこで簡単に「わかった」と思うと危険だなと思うのです。

特に相手がその世界のプロフェッショナルだったり、トップランナーだったりしたときには、自分が見ていないような深いところまで見ているはずです。もしくは、ものすごく先を見ているはずです。なので、いきなり会いに行った僕がすぐに理解できるわけがない。

つねに僕は取材するときに「まだ自分はわかっていない」と思っています。そして「さらに奥に何かがあるはずだ」と考えます。そしてその「何か」を探すように取材を進めるわけです。

「それはどういうことなんですか?」「ほんとのところ、どうなんですか?」「〇〇すると簡単に言いますが、実際それってすごく難しくないですか?」……そうやって、その奥にあるものを探しに行く。その姿勢が大事なのかなと思います。 

安易に「わかった」と思ってしまうと、それ以上は話が進みません。その深いところにある「何か」をつかむことができない。いい取材になるか、浅い取材になるかは、このあたりの差もあるような気がします。 

僕の取材のスタンスは基本的に「他人のことはわからない」というものです。それは「理解できない存在だ」とか「不可解だ」とかそういうことが言いたいわけではありません。

もちろん理解しようとするのだけれど「さらに奥に何かがあるはずだ」「さらに深いところに何かがあるのではないか」とつねに考えること。それが相手への興味関心とリスペクトにつながると思うからです。 

人はそんなに単純じゃない。シンプルじゃない。いろんな歴史を経てここにいるわけです。

この「簡単にはわからないものだ」というスタンスを持っていると、相手への想像力も働きます。「笑って話しているけれど、もしかしたらつらかったのかもしれない……」「簡単にできたように話しているけれど、実際はものすごく大変だったのかもしれない……」というように、その向こう側にまで思いを馳せる。

それは相手を大切に思うことにもつながるのではないかと思うんです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?