太平洋戦争はこうしてはじまった㉒

満州の全土占領をもくろんだ張作霖爆殺事件


 大正時代を通じて、中国は一種の混乱状態にあった。1911年の「辛亥革命」で清王朝が倒れ、中華民国が成立。しかし、1916年に初代大総統袁世凱が死去すると、統治者の消えた中国は軍閥が割拠するようになる。そうした状況の中、満州の軍閥を統治したのが張作霖だ。元満州馬賊の張作霖は奉天、吉林、黒竜江の東三省を支配地域とし、日本の支援を受けつつ事実上の独立を保っていた。
 当時の日本は、張作霖との協調関係で満蒙利益の保護を考えたとされる。しかし実際は張作霖だけにこだわらず、どこが勢力を伸ばしてもいいよう、ほかの軍閥にも資金援助を欠かさなかった。張作霖に支援が集中したのは、1927年頃だという。
 1924年には張作霖が北京の軍閥、直隷派を下し、華北の大部分を支配下におさめた。中華統一も狙ったが、1926年の蒋介石による北伐で苦戦することになる。張作霖の苦境に危機感を抱いたのが、満州方面の関東軍だ。関東軍は南満州鉄道(満鉄)および関東州の保護を任務とする組織である。
 張作霖は日本の援助を受けつつも、たびたび日本側の利権を削ぐ行動を見せていた。1927年には独自の鉄道路線である打通線と奉天線を開通させ、満鉄の権益を脅かしている。日本人軍事顧問によるコントロールも上手くいかず、奉天の味方をし続けても日本の得になるかはわからない。それでも日本政府は、満州の貴重な窓口として張作霖支持の姿勢を崩せない。
 そこで関東軍の参謀河本大作大佐らが計画したのが、張作霖の暗殺だ。指導者の死による混乱に乗じて出兵し、満州全土の直接占領を目論んだのである。
 1928年6月4日、北京を放棄した張作霖が列車で奉天に帰還する途中、奉天駅西方1キロ地点の路線が爆発した。特別列車は爆発に巻き込まれて大破。重傷を負った張作霖は2時間後に死亡した。こうして張作霖の暗殺にこそ成功したが、河本の思惑通りに進んだのはここまでだ。張作霖の子の張学良は父の死をひた隠ししたためたいした混乱も起きず、河本は出兵のタイミングを逃した。
 さらに翌年12月29日には、革命旗である「青天白日旗」が奉天に掲げられている。これは国民党政府への忠誠を意味するものであり、日本は満州最大派閥の支持を失った。奉天の軍隊は国民党の東北軍に再編され、日本の対中政策はより難しくなったのである。

本記事へのお問い合わせ先
info@take-o.net

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?