太平洋戦争はこうしてはじまった53

松岡外相による対米外交への反発

 
 日米諒解案は試案、つまり日米要人双方の議論で調整された「たたき台」であって、アメリカ側の正式な提案ではない。この案をスタートとした交渉開始が、アメリカの真意だったのである。これを正式提案と誤認した日本政府と軍部は受諾を急いだ。しかし、大橋忠一外務次官が松岡洋右外相の帰国を待つべきと主張したことで、決定は一旦保留となった。
 当時の松岡は、シベリア鉄道経由で独ソ訪問に赴いていた。本命の日独伊にソ連を加えた四国同盟締結には失敗したものの、1941年4月13日には「日ソ中立条約」の締結に成功する。この条約でソ連は日独二正面作戦を避けられ、松岡もソ連が支援する中国軍の弱体化とアメリカの態度軟化を期待したのである。
 松岡が帰国したのは4月22日。大橋から日米諒解案の存在を知らされたのは、迎えの車中だったという。松岡はアメリカ主導の諒解案に反意を示し、「松岡三原則」なる修正案を政府に提出した。中国戦線への米国不介入、三国同盟への不干渉、アメリカの欧州戦線参加阻止を主軸とし、さらに日米中立条約まで付け加えた。
 日米交渉の早期開始を優先したい政府と軍部は、5月12日に松岡の案を承認。野村吉三郎駐米大使を通じてコーデル・ハル国務長官に伝達された。
 野村は交渉決裂を恐れ、口上書を飛ばし読みで伝えていた。だがアメリカは、暗号解読で事前に松岡三原則の中身を知っていたようだ。それでも、ハルは迅速なる交渉開始を約束している。アメリカはドイツの対ソ宣戦布告の情報をつかんでおり、その前に日本を同盟から脱退させ、独ソ双方に衝撃を与えるつもりだったのだ。
 しかし外相が反対派では協議が進まない。アメリカ側も6月12日の修正案提示の際に、「ドイツを支持する指導者」を交渉進展の障害としている。明らかに松岡を指した批判であった。
 松岡は激怒したが、すでに皇室と政府の支持は失われつつあった。5月8日の昭和天皇への上奏で松岡は、アメリカ参戦時のシンガポール攻撃と独ソ衝突での中立破棄を主張。これに対して天皇は、側近たちに外務大臣の取り替えを検討させた。
 同日に近衛文麿首相が松岡の対応について、陸海相と密議する。7月16日、臨時閣議によって第二次近衛内閣は総辞職を表明。松岡のみを更迭するとアメリカへの屈服と見なされるというのが、その理由だ。近衛は戦時体制の強化という名目で一度内閣を崩し、松岡なしの新内閣を発足させる。第三次近衛内閣では豊田貞次郎が外相となり、対米交渉も円滑化するはずだった。

本記事へのお問い合わせ先
info@take-o.net

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?