太平洋戦争はこうしてはじまった㉘

関東軍の方針転換と第一次上海事変


 関東軍が満州における新政権樹立を初めて考案したのは、1931年9月19日のことだ。この日、満州の完全領有を主張する石原莞爾に対し、参謀本部から派遣された建川美次第一部長は新政権の樹立を主張した。関東軍司令官の本庄繁中将もこれを支持し、22日に日本の傀儡政権樹立を目指す「満蒙問題解決策案」を陸軍中央に送っている。
 内閣と陸軍中央も事変の進行で新政権容認に傾き、10月5日の閣議では南次郎陸相が「腹を定めよ」と内閣に詰め寄る。若槻礼次郎首相も新政権には関与せずとしながらも、「何たるを問わず(存在は認める)」と容認の姿勢を見せたのである。
 しかし、関東軍は本土の一歩先を行っていた。すでに10月2日の時点で石原と板垣征四郎大佐は方針を政権樹立から国家建国に変え、満蒙を「保護国」として独立させる「満蒙問題解決案」を作成。11月7日には満州国の基礎となる「満蒙自由国設立案大綱」を作り上げていた。
 溥儀の協力を取り付けると、遼寧、吉林、ハルビンに臨時政府や治安維持会を次々に樹立し、蒋介石政権からの独立を宣言させる。その背景には奉天文治派の有力者・于冲漢の協力があり、満州国家の樹立は確定路線となりつつあった。
 だが、建国実現には国内外の反発を逸らす必要があった。中国は関東軍の侵攻を「日本の侵略行為」として国際連盟に提訴しており、9月30日には速やかな撤収を勧告する理事会決議が為されている。
 日本政府は政権の樹立容認に傾いていたものの、独立国家の建設は一貫して反対。陸軍中央も、満州の国家建設は情勢を鑑みながら判断すべきとしていた。関東軍は日本からの独立を盾に強行を示し、本土では不拡大に反対する陸軍急進派によるクーデターも計画されるが、10月17日に検挙されて未遂に終わる。本土からの本格支援は望み薄となった。
 このような批判の目を逸らすため、関東軍は上海で事件を誘発させる。板垣は上海公使館付武官の田中隆吉少佐を動かし、一般中国人と日本人右翼の衝突を先導。居留民保護に派遣された陸軍部隊と中国軍が衝突する事態となった。
 1932年1月18日より本格化した、この「第一次上海事変」により、国内外の目は上海に釘付けとなる。日本陸軍は二個師団を派遣するが苦戦を続け、国連は2月26日に戦闘中止を勧告するなど上海問題の解決に集中していった。この隙を狙い、関東軍は満州国の建国を強行したのである。

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