太平洋戦争はこうしてはじまった㊻

日本とソ連が衝突した第一次ノモンハン事件


 本土で平沼内閣が成立した頃、満州方面では日蒙ソの対立が深刻化しつつあった。原因は国境問題である。満州国と国境を接していたのは中国、モンゴル、ソ連。満州国と関東軍はモンゴルとの境をハルハ河としていたが、モンゴルは河の東方地域も含まれると主張する。南東部ではソ連との国境問題も複雑化し、国境紛争が多発することになる。
 紛争の発生数は1937年で113回。翌年には166回にものぼる。なかでも1938年7月から8月にかけて、満州南東部の張鼓峰で発生した衝突は、朝鮮駐屯の一個師団とソ連軍三個師団が激突する大規模戦闘になった(張鼓峰事件)。死傷者数はソ連軍が上だったものの、日本軍も参加兵力の2割が死傷し8月10日にモスクワで停戦協定が結ばれた。
 こうした国境紛争に対し、陸軍中央部は日本側からの攻撃は禁じていた。しかし関東軍は、1939年4月12日に対ソ反撃を見越した「満ソ国境処理要綱」を策定。この方針では、国境不明瞭な地域に対して指揮官に自主的な国境認定を許し、状況によってはソ連領内への一時的侵攻すら許可された。
 最大の軍事衝突が発生したのは、要綱成立の約1ヵ月後のことだ。5月11日、満蒙国境沿いのノモンハンにて、満州国軍とモンゴル軍の小競り合いが生じる。ハルハ河周辺の防備を受け持つ第二三師団は先の要綱に従い攻撃態勢を敷き、関東軍本部も参謀次長の許可の下で出撃命令を発したのである。
 15日に東支隊約220名がハルハ河に到着すると、モンゴル軍は自国領に撤退した。師団長の小笠原道太郎中将は勝利を確信し、満州国軍に警備を任せて東支隊を撤退させる。しかし、これで終わりではなかった。モンゴルの同盟国ソ連がノモンハンへと動員を始めたからだ。自動車化砲兵と戦車を含めた約1040名の混成部隊である。これにモンゴル軍約1250名を加えた兵力が、河沿いに展開していた。小笠原師団長も山県支隊約2000名を編成し、28日より攻撃を開始したのだった。
 分断と包囲を狙う山県支隊はソ連砲撃部隊に苦戦し、突出した東支隊はソ連戦車や装甲車部隊に逆包囲を受ける。隊長の東八百蔵中佐は戦死。東支隊もほぼ全滅し、小笠原師団長は31日に山県支隊を撤退させた。ただ、地上戦は敗北に終わったが、航空戦では機体と搭乗員の質に劣るソ連軍に優勢を保っている。こうして「第一次ノモンハン事件」は日ソの痛み分けで終わったのである。

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