武器を使わない情報戦ープロパガンダ⑥

映画館で戦意をあおった「日本ニュース」

戦況報告一色ではなかったニュース映画

 現在、映像のニュースはネットやテレビが主流だが、戦前や戦中、そして戦後のしばらくは映画館でも流されていた。いわゆる「ニュース映画」というもので、娯楽映画の上映前などに短時間上映し、国内外の出来事を国民が知る手段となっていたのだ。
 そんなニュース映画の代表格といえるのが、1940年から1951年まで日本ニュース映画社(1941年日本映画社に改称)によって制作された「日本ニュース」だ。日本ニュース映画社は、4つの新聞社と各通信社のニュース映画部門を政府が統合して立ち上げた制作会社である。
 全国の国民は、毎週上映されるこのニュースを通じて、日中戦争や太平洋戦争の状況を知ることになる。ただし、内容は軍や政府の検閲済み。そのため軍に不都合な情報は徹底して削除され、戦時下では戦争プロパガンダ放送として機能したのである。
 ただし、常にプロパガンダ一色だったわけでもなく、放送内容は戦況によって変化を見せていた。1940年6月11日に封切られた第1号を見ると、内容は5つに分けられている。記念すべき初報は天皇陛下の関西御巡幸を報じ、次いで東亜競技大会の様子を伝えている。そこから、日中戦の渡河戦と欧州戦争の陸空戦を紹介。それ以降も日常・政治の話題が意外と多く、普通のニュース映画の体は守られていたのだ。
 戦争紹介も一工夫されている。日中戦争時代は現地の状況を大陸通信として紹介していたのだが、12月18日の第28号では「上海の正月」と称して兵士が餅を作る様子が映されている。第31号では兵士が相撲や餅で楽しく迎春する姿を見せるなど、軍隊生活を「明るく楽しいもの」と見えるよう徹底されている。もちろん真面目な戦況報道もあったのだが、コミカルな生活風景も混ぜることにより、軍や戦争がより親しみやすくなるよう工夫されたのである。

不利益な事実はすべて隠ぺい

 しかし、太平洋戦争に入ると日常の話題は激減。日米開戦を伝える第79号(1941年12月9日)を境に、内容は戦争一色となる。映画冒頭には「大東亜戦争完遂へ!」という標語が飾られ、1942年の春を過ぎるまでは日本軍の戦勝情報が報道の大半を占めることになる。
 もちろん、日本軍に不利益な事実は決して語られない。1942年6月にはミッドウェー海戦で海軍機動部隊は壊滅的な損害をこうむるのだが、日本ニュースでは別作戦のアリューシャン攻略が大々的に報道された。もちろん、4月の東京初空襲も隠ぺいされている。すべては国民の戦意喪失を避けるためだ。
 秋頃よりニュースには変化があり、ひとつは日常的話題の復活だ。しかし豊作の報道に兵隊の参加が伝えられ、鉄道開通70周年報道にも資材節約がうたわれるように、戦争の雰囲気が戦前より強くふくまれるようになった。
 もうひとつは「共栄圏便り」のスタートだ。日本の占領下にある大陸・南方各地の生活風景を紹介するという名目で、128号(1942年11月17日)より始まった。その真意は日本軍による統治の正当化。日本軍が解放した住人達が豊かに暮らす、という体の放送を見せることで、国民にアジア解放という戦争の建前を信じさせようとしたのだ。

ナレーションすらなくなった終戦直前報道

 共栄圏便りは1943年5月に打ち切られるが、占領地プロパガンダは43年末まで続けられていた。ただし、1944年に入るとこれらの報道は減少する。日常報道は学徒訓練、工場動員、防空対策が中心となり、防衛と増産体制の強化を呼びかけた。
 疎開開始と特攻作戦はありのままに伝えられ、アメリカによる本土空襲も防空隊による撃退という形で報道された。負け戦は「玉砕」という美化か報道なしであったが、避けられない戦いは改変されて流される。レイテ沖海戦の顛末を伝える第232号(1944年11月9日)では、母艦を喪失して海上着水した機体を「燃料を使い果たし着艦を諦めた英雄」と紹介している。
 そして1945年4月23日の第250号。沖縄への敵軍上陸の報を最後に戦場報道はなくなる。6月の第252・253号では空挺部隊や雷撃隊の奮戦を報じてはいるが、沖縄戦線全体の推移は一切触れていない。7月1日の第254号になると、航空隊基地の様子を軍歌とともに流すだけで、ナレーションもなくなった。
 この号を最後に日本ニュースの制作は止まり、8月15日の終戦を迎えることになる。以後も1951年まで日本ニュースは存続するが、中身は普通のニュース映画となっている。

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