太平洋戦争はこうしてはじまった⑱

アメリカ国内の日本人排斥政策


 第一次世界大戦への参戦で日本は国連常任理事国となったが、対米関係は不安定化を続けていた。理由のひとつは、日本人への危機感だ。日清・日露戦争の勝利以降、欧米では躍進する日本への警戒心が芽吹いていた。アジア人の脅威を唱える「黄禍論」が蔓延し、移民国家のアメリカですら人種間の軋轢によって、中国系移民を制限する排華法を制定している。こうした排除は日本人移民も及んでいた。
 日米間の移民事業は19世紀末に開始。黄禍論の高まりで20世紀初頭からは日本人排斥の機運が高まっていく。1906年にはサンフランシスコで日本人生徒が小学校から強制退学させられた「日本人学童隔離事件」が発生。翌年に退学は撤回されたものの、1908年の日米紳士協定の調印によって、ハワイ方面からの移民は事実上停止となった。さらに移民の定住志向が強まったことで、カリフォルニア州は1913年に外国人土地法を制定して、移民の土地所有を禁止。もちろん、日本人も帰化不能外国人として法の枷を嵌められてしまう。
 第一次世界大戦時には、「対華二十一ヶ条要求」やシベリア出兵での日米合意を無視した増派で、対日感情はいっそう悪化していく。ほかの移民についても、1921年の移民法改正や移民禁止区域の制定で排除が加速。そうした流れで可決された新法が、1924年移民法だ。アメリカでの別名は「ジョンソン・リード法」。従来の1921年移民法に第13条C項の追加と細部の修正を施したもので、日本では排日移民法としても有名だ。そう呼ばれるのは、追加条文で日本人の移民が全面禁止となったからだ。
 しかし、これは日本人だけを狙い撃ちした法ではない。ほかのアジア人も帰化不能外国人として移民が禁止されているし、急増する東欧・南欧出身者も在住中する各国出身者の約2%と制限された。いわば対米移民全体を規制する法律だったのだ。
 法案阻止のため提出された埴原正直駐米大使の抗議書が、上院に威嚇と誤解されて成立したという説もある。日本でよく唱えられる仮説だが、実際にはほぼ無視されていたようだ。移民規制はアメリカ全体の流れだった。「埴原文書」があってもなくとも結果は同じだっただろう。
 ただし、この移民法で日本人移民が排斥されたことは変わりなく、日本の対米感情も急激に悪くなる。アジア系移民の排斥が法的に終了するのは、戦後20年たった1965年のことである。

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