知られざる太平洋戦争のドラマ⑯

今村均大将が結んだ革命家スカルノとの友情

攻略後に行った地元への融和政策

「アジアの植民地を西欧諸国から解放する」
日本はこのようなスローガンを掲げてアジア進出を推し進めたが、これが単なる口実だったことは歴史が証明している。
当初は日本軍を支援した現地住民だったが独立の願いは叶えられることはなく、支配者が欧米から日本に置き換わっただけとなった。協力していた義勇軍も日本軍の圧政に反乱をくり返し、占領統治はいらぬ敵を増やすだけに終わってしまったのである。
そうした中で、唯一地元との友好関係を結んで良好な統治を行った将校がいた。インドネシアの独立家との友情を育んだ今村均大将だ。
今村は第一六軍司令官として蘭印方面(インドネシア)攻略を任され、1942年2月の作戦では、わずか1ヵ月で連合軍の最重要拠点であるジャワ島の攻略に成功する。早期の目標達成には海軍の支援や落下傘部隊の活用が奏功したほかに、現地民の協力があったことが大きい。
 こうしてインドネシア一帯を手に入れた今村が、手始めに行ったのは独立運動家の釈放だった。
円滑な統治には現地有力者の支持が不可欠との判断と、占領直後から現地民の嘆願書が大量に届いていたこともあり、今村は収容所の解放を決断。自由となった活動家の中にいたのが、のちにインドネシア初代大統領となるスカルノだった。

今村を認めたカリスマ活動家スカルノ

 活動家の釈放自体は他の占領地区でも実施されていたが、大半は自由な活動を認めず高圧的に接する将校も多かったという。
しかし今村は違った。
現地でもカリスマ的存在だったスカルノとの対面時に、今村は独立については権限がないことを詫びつつも、日本軍を非難しない限りは自由な行動を認めると提示。それどころか、多額の活動資金すら援助していたのである。
「私は貴方に対してこうせよと命令することはいたしません。(中略)約束できる事柄はただ一つ。これからの軍政統治を、オランダ支配時代よりも福祉の面で優れたものにするということだけです」
 そう約束されたスカルノは半信半疑だったが、今村の政策は現地民の期待にそえるものだった。軍部の命令による年号改変や日本語教育の実施、そして民族歌や旗の使用禁止はしたものの、独立運動の支援や不良兵士の徹底した取り締まりといった方針で現地民の支持を集め、スカルノも今村を認め協力を約束するようになる。
これこそ、まさに日本とインドネシアの友情が成立した瞬間であった。
こうした融和政策は日本国内の一部からも支持され、1942年4月に派遣された陸軍大臣の政治顧問団も、「どこをまわっても何の危険も感じない。産業の回復も早いので、強圧な政策は不要だ」と今村の手腕を賞賛している。

今村に死刑判決が下された際の奪還計画

しかし、日本軍の力と威光を示したかった大本営は違った。今村の融和政策を軟弱として、マレーやビルマのような強行政策に転換させようとしたのだ。
 政治顧問団が帰国してから間もなく、次にやってきたのは陸軍の視察団だった。参謀総長の杉山元、作戦課長の服部卓四郎、武田功謀略課長という顔ぶれに加えて、後日に武藤章軍務局長や富永恭次人事局長までもがジャワ入りするという、まさに今村を絶対に方向転換させようとする気概が伝わる布陣である。
 彼らは占領地域の統治方針を定めた「占領地統治要綱」の改正を名目に、強行政策への転換を求める。しかし、陸軍の大物たちを前にしても、今村の決意は揺るがない。視察団は何日も議論を繰り返したが、最後まで融和政策を撤回させることはできなかったのだ。
大本営も今村の方針を全否定することはなくなり、武藤も5月の局内会議で「中央が干渉するのはまだ避けるべきである」と一定の理解を示す発言をしている。今村は11月にラバウルへと転任するが、後任の原田熊吉中将も大本営の方針に衝突しない範囲で融和を進める方針を守ることになる。
そのおかげでインドネシアとの良好な関係は保たれ、ほかの地域のような激しい抗日運動はあまり起きることはなかった。
 こうした今村とインドネシアの友情の深さを表す逸話がある。
終戦後、今村はオランダ軍の裁判を受けるためジャカルタに移送となった。終戦直後は数多くの日本軍将校が理不尽に処刑されていたのだが、ここで助け舟を出そうとしたのがスカルノだった。
今村との友情を忘れていなかったスカルノは、死刑が確定したら奪還する計画を立てていたのだ。
この計画は今村自身が断ったことと、無罪判決が下ったことで実行はされなかったが、まさに今村とインドネシアの関係の強さを如実に示したエピソードといえよう。


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