太平洋戦争はこうしてはじまった㉚

陸海軍青年将校による「五・一五事件」


 日本が満州国承認の是非で揺れていた1932年5月15日、首相官邸が軍人の一団に襲撃された。犯行グループは、三上卓海軍中尉が率いる陸海軍青年将校だった。犬養毅首相は銃撃で重傷を負い(6時間後に死亡)、警察官2名が死傷。犬養は襲撃犯との対話を試み、銃撃後も「話して聞かせることがある」と呼び戻すよう女中に命じていたという。
 同時に変電所、警視庁、政友会本部、日本銀行、神奈川県の内大臣邸などが、農民決死隊を含む別動隊に襲撃される。こちらは全て失敗に終わり、実行犯の陸海軍将校達は憲兵本部に出頭した。これが「五・一五事件」と呼ばれる首相殺害テロの顛末だ。
 事件の裏には、農村の貧困と軍部の政府に対する不満があった。昭和恐慌の影響は都市部だと短期に終わったが、農村部では米価の大暴落と海外の安価なコメの流入で大打撃を受けていた。慢性化する貧困で娘の身売りも横行。農村出身者の多い青年軍人には、政府に憤りを示す者も多かった。
 そのうえ海軍ではロンドン軍縮条約への不満が大きく、陸軍でも政府の軍部に対する消極姿勢に強い反感を抱いていた。そうした状況下で、軍人や民間右翼の中から「政党政治の打倒による国家改革」を目指す動きが起こり始める。また、大正時代中期頃から思想家、北一輝らが提唱した「国家改造案」の影響も大きいようだ。
 1931年3月には陸軍桜会によるクーデター未遂の「三月事件」、10月には満州事変に呼応した「十月事件」が発生。これらは未遂に終わったが、1932年7年2月から3月にかけては極右団体による連続テロが起こる。この事件で民政党幹事長の前蔵相井上準之助、三井合名会社理事長団琢磨が死亡し、のちに「血盟団事件」と呼ばれることになる。血盟団は陸海軍青年将校とも太いパイプで繋がっており、五・一五事件は血盟団事件と呼応してのものだった。当初は藤井斉中尉が海軍側の中核だったが、第一次上海事変での戦死で三上が計画実行を担ったのである。
 犬養の死後、事件の首謀者達は国民の減刑嘆願運動もあり、誰一人重罰には科せられなかった。困窮に苦しむ国民は、政権打倒を目指した軍人達に同情と共感を示したのである。事件後に組閣した内郭は元海軍大将の斎藤実を首相とし、政党政治は事実上中断された。消極的姿勢を取っていた満州問題も、9月15日の「日満議定書」の調印で正式承認が成される。ここに日本は、軍国主義への扉を開いたのである。

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