太平洋戦争はこうしてはじまった㊹

総力戦体制を構築させた国家総動員法


 日中間の戦闘が長期にわたることを見越した日本政府は、国内経済の統制に着手した。長期戦をやり遂げるには、国内生産の全てを戦争につぎ込む「総力戦体制」の構築が急務だったからだ。
 1937年9月4日に開かれた第72回帝国議会では、大蔵省と商工省の主導で3つの統制法案が立法される。企業の資金調達を政府が審査統制する「臨時資金調整法」、輸出入の物資の需給を統制する「輸出入品等臨時措置法」。そして、軍需工業動員法に基づき、陸海軍による工場の管理、使用、収容の手続きの明確化と軍関係工場への軍人監察官の派遣を定めた「軍需工業動員法の適応に関する法律」である。
 これらの成立によって、ヒト、モノ、カネの直接統制が可能となり、ゴム製品などの使用制限も始まった。経済統制は戦争続行が大きな目的だが、軍需輸入の増大による輸入超過の拡大と国内需要増加によるインフレ対策のためでもあったという。さらには独ソ統制経済への強いあこがれもあったようだ。
 9月9日には、「国民精神総動員運動」の開始を促す内閣訓令も発表される。贅沢の禁止や節約、貯蓄、勤労奉仕の奨励を旨とするスローガンがメディアを通じて呼びかけられ、国民の戦争協力を進めさせようとした。内閣内でも、10月に資源局と企画庁を統合する形で企画院を創設。政府の経済政策に応じて物資・人員の動員を計画しつつ、戦争経済の運営立案を司る部署である。
 こうして統制経済への準備が進んでいた12月26日、統制立法は「国家総動員法」に発展する。全50条からなる法案は、国家が経済や労働だけでなく、言論、出版、企業運営、報道を含めた広大な範囲を統制できるとした。事実上の政府に対する全権委任法案だ。
 法案を主導したのは陸軍である。すでに5月の時点で「総動員法立案ニ対スル意見」を内閣に送り、悲願の国家総力戦体制構築を訴えかけていた。企画院設立と同時に陸軍が提出した法案は、当然ながら与野党から激しい反対を受ける。議論の最中、陸軍省新聞班長佐藤賢了中佐が野次に対して「黙れ」と叫んだ事件は有名だ(黙れ事件)。しかし、戦時のみの適応とされたことや陸軍のにらみで批判は緩み、国家総動員法は可決。公布は1938年4月1日、施行は5月5日だった。

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