太平洋戦争はこうしてはじまった59

日米開戦が確定的となった新帝国国策遂行要領


 首相となった東条英機は、昭和天皇の意思に従い国策の再検討に入った。組閣に際しては特例で自身を大将に昇進させ、陸軍大臣と内務大臣を兼任。これは政治と統帥権の一体化を目指しただけでなく、日米交渉がアメリカ有利に終わった場合に想定される軍民暴動への備えでもあったという。また外相には和平推進派の東郷重徳、大蔵相にも同じく和平派の賀屋興宣を据え、和平前提のかじ取りを試みようとしていた。
 ただ、アメリカ首脳部は東条政権に否定的だったようだ。好意的に接したのはグルー駐日大使ぐらいで、ホワイトハウスは軍事独裁政権が組織されたと認識したという。
 1941年10月18日、陸軍参謀本部では早くも国策再検討の協議が行われる。陸軍省との調整の結果、陸軍は再検討と作戦準備を両立させるとした。一方の海軍も20日に再検討の実施と交渉継続を申し合わせたのだが、永野修身軍令部長は「用兵作戦に支障あることは容認できぬ」とし、9月6日午前会議も変更の余地なしとした。すなわち、国策再検討を否定したのである。作戦の責任を負う軍令部としての焦りがあったとされている。
 国策再検討に関する10月23日からの連絡会議でも、永野は石油備蓄を鑑みて早期開戦を主張。陸軍内でも参謀総長の杉山元が開戦案に同意した。そして会議最終日の11月1日、嶋田繁太郎海相は海軍を代表して開戦への同意を表明。すでに10月30日の時点で、嶋田は軍務局長らを呼び寄せ開戦への同意を告げている。東条らと同じ開戦否定派とみられていた嶋田の心変わりには、海軍の長老格たる伏見宮博恭の助言があったとされる。
 陸海軍の開戦同意で再検討の大部分は終了した。具体的な方針としては、戦争回避の第一案、開戦準備に集中する第二案、作戦準備と外交施策を並行する第三案の三案が議題に上がり、政府との調整で第三案が採用。11月5日に新しい帝国国策遂行要領が御前会議で決定した。
 このように、新しい要領の大まかな内容は9月決定の要領とほとんど変わらない。陸海軍は作戦準備の完遂を目指し、対米交渉が期間内に成立しなければ武力発動を実行するというものだ。対米交渉の期限は12月1日午前0時。しかし軍部は開戦方針でまとまっており、交渉の成立は極めて難しくなっていた。その後、会議は交渉条件の見直しに入るのだが、もはや日米開戦は時間の問題となりつつあった。

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