知られざる太平洋戦争のドラマ⑲

特攻を拒否した「肥田天山雷撃部隊」

艦上攻撃機の新型主力機「天山」

 人間を航空機や特殊兵器に乗せて敵艦へ誘導させて自爆させる「特攻」は志願制となってはいた。が、その実情は体罰や同調圧力、上官からのパワーハラスメントで出撃を強要していたことは否定のできない事実だ。しかしそのような特攻強制の流れに、最後まであらがいつづけた部隊もある。
 特攻を拒否した部隊は、美濃部正少佐が指揮した夜間攻撃部隊の「芙蓉部隊」が有名だ。そして、もう一つが肥田真幸大尉による攻撃第二五四飛行隊、通称「天山雷撃部隊」である。
開戦時に肥田は霞ヶ浦の飛行隊で教官職を務め、第三三一航空隊長兼分隊長として戦地行きが決まったのは1943年7月1日だった。このころにはすでにベテランの多くが散り、肥田は海軍最年少の隊長として戦うことになったのだった。
 肥田の愛機だった「天山」は、空母部隊の次期主力攻撃機として開発された新型機だった。しかし空母部隊の戦力低下により地上基地に配備されることが多かった。そうした新型機に乗り、1944年6月のマリアナ沖海戦では空戦力に勝るF6F戦闘機の追撃を振り切ってグアム島に不時着。再出撃では、たった1機で空母に命中弾を与える活躍を見せている。愛機が破壊されても、修理した戦闘機に生存者をすし詰めにして脱出するという、まさに豪の者だった。

肥田大尉が特攻を拒否した理由

 グアムからの脱出後は、内地に帰還してから空母航空隊の戦闘第一六二飛行隊や第六〇一航空隊の隊長を経験しつつ、11月15日の機動艦隊解散によって艦攻隊の隊長としてふたたび「天山」に搭乗。翌年2月20日には攻撃第二五四飛行隊隊長として、香取基地で訓練と雷撃任務に従事することになる。
 この二五四部隊で肥田が特攻を拒否したことは事実だ。レイテ沖海戦で特攻が実施されても肥田は最後の手段と位置づけ、夜間の雷撃ならアメリカ軍にもまだ太刀打ちできる、と考えていたからだ。しかし、それまでに一度も特攻をしなかったというわけでもない。
 いくら特攻に否定的でも、軍隊である以上は上層部に命令されると拒否は許されない。肥田が二五四部隊隊長となる4日前、硫黄島へのアメリカ上陸開始にともない特攻隊の人選をするよう命令されている。特攻を軽々しく用いるべきではない、と反対はしたが、硫黄島の陥落は日本にとって致命的であると拒否されてしまい、やむなく自分を指揮官にするのを条件に人員の選抜を了承した。
結局、肥田は残ることになり、2月21日に出撃したこの特攻隊こそが、硫黄島沖で護衛空母を撃沈した第二御盾隊だった。ちなみに芙蓉部隊も特攻を否定はしておらず、必要であれば実行する覚悟があったことも事実である。
 このような苦い経験をしたからこそ、肥田は特攻を否定する決意が固まったのかもしれない。3月20日に千葉県の横芝基地に移動したときにも、総員を集めて「わが隊を特攻隊にあらざる夜間雷撃部隊につくりあげる」と宣言し、それに恥じない猛訓練をつづけた。

終戦まで生き残った肥田雷撃部隊

 3月27日、沖縄戦の開始で鹿児島県串良基地への進出命令を受けた肥田は、予備機をふくめた9機を派遣することになる。事実上、夜間雷撃隊の初陣である。特攻に使用しないよう念押しされて派遣された9機は4月11日に巡洋艦らしき艦を撃沈したが、激戦によって4月17日までに7機を喪失。残る2機は二五一飛行隊に編入されて特攻作戦で散る。無断で実施された強制編入に肥田は猛抗議をしたが、司令部は上の方針だと拒否。さらなる12機の進出を命じてきた。
 そのようにして、4月26日から進出した第二次派遣隊は勇敢に戦った。本来の役割である夜間雷撃隊として特攻隊と協力し合い、日没後の航空攻撃で敵輸送船団に損害をあたえている。特攻と大差がないといわれる1週間の激戦で4機にまで減少したが、夜間雷撃が有用であることを大本営に示したのである。
 派遣隊が奮闘しているさなかにも、備蓄燃料のある八丈島を利用して猛訓練を続けた肥田は7月までに約40機の夜間専門部隊をそろえることに成功。そして海軍総隊の命令で三重県の第二鈴鹿基地にて本土決戦の日を待ち、8月15日に関東方面への機動部隊襲来の電報を受けると総攻撃を決意した。空母部隊の生き残りとして華々しく散ることを覚悟はしたが、正午の玉音放送で戦争の終わりを知った。
 こうして肥田雷撃部隊は、望まぬ特攻に苦悩しながらも戦争を生き抜いた。戦後の肥田は海上自衛隊に入隊して、海将の地位を得、航空集団司令官にも就任。1989年に勲三等瑞宝章を授与されている。

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