太平洋戦争はこうしてはじまった58

東条英機内閣の発足

 
 日米首脳会談構想の破綻で、日本海軍首脳部は1941年10月6日に海相官邸にて会合を開いた。さらなる条件緩和による交渉続行を議題としたが、交渉期限の設定に固執する一部との擦り合わせができず物別れに終わる。
 12日に近衛文麿首相の萩窪邸で開かれた、陸海外の三相と鈴木定一企画院総裁が参加した和戦会議も結局は決裂。このように、交渉決裂後も交渉続行の動きはあったのだが、国全体の意思統一は遅々として進まなかったのである。
 この「萩窪会議」が失敗した原因は陸軍の対米譲歩反対にある、と富田健治書記官長は回想録に残している。しかし陸軍側の回想だと、責任は海軍にあるとした。
 当時の東条英機陸相の部下、佐藤賢了大佐(15日に少将)の証言によると、東条は対米戦の主役たる海軍の責任を重んじ、海軍大臣の首相一任はもってのほか、と憤慨したという。また14日にも東条は海軍大臣を非難し、海軍の優柔不断な態度が決裂の原因だとしたのである。
 こうした陸海対立で会議が決裂すると、東条は14日の閣議で大陸撤兵拒否の演説を行った。同日には木戸幸一内大臣とも会談し、次期内閣についての相談を行っている。近衛内閣の総辞職を見越しての行動だ。鈴木を介した首相への進言でも、海軍批判と同時に全員辞職と対米案の練り直しを代弁させていた。そして、陸海軍を抑える力は、いまの臣下にいない、として次期首相候補の名も出している。
 東条が候補としたのは東久邇宮稔彦王だ。現役武官かつ皇族の東久邇宮なら、陸海軍の制御も可能。東久邇宮本人も避戦を希求していたので、対米策の練り直しには最適と東条はもくろんだのだ。これに反対したのが木戸である。皇族内閣で対米戦に突入し、敗戦すれば国民の恨みが皇室に向くというのが理由だ。
 東条の案はここに断たれ、逆に木戸が首相候補として推薦したのは東条である。強硬派にも顔が効く東条であれば、陸軍内を抑えられるという読みだった。
 かくして10月17日、東条は天皇より組閣を命じられる。その際に、木戸から「御前会議の決定にとらわるるところなく」政策を進めよと助言された。つまり、御前会議の事実上の白紙化である。
 翌18日、第三次近衛内閣は解散し、東条内閣が発足。直後に東条は陸軍大将に昇進。陸軍大臣や内務大臣などを兼任しつつ、戦争回避に動くことになる。

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