太平洋戦争はこうしてはじまった㉟

クーデターの決行前夜
 
 陸軍内は皇道派と統制派に分かれたが、皇道派の内部も一枚岩というわけではなかった。対立したのは高級将校と青年将校だ。
 青年将校は荒木貞夫元陸相に見切りをつけ、真崎甚三郎大将への支持を強めていた。北一輝の国家主義思想に感銘を受けた彼らは軍主導の「昭和維新」を目指し、実現のためには武力行使も辞さず、と考えるようになる。
 中核となったのは、磯部浅一と村中考次だ。二人は陸軍士官学校事件で停職となり、その後に粛軍の意見書を配布した罪を問われて軍を追われている。革新志向の強い彼らは軍への強い不満を抱くようになり、軍と政府の粛正を決断したとされている。
 磯部が蜂起を決意したのは、1935年8月2日であるという。軍務局長の永田鉄山少将が刺殺された「相沢事件」の当日で、犯人の相沢三郎中佐の行動に感化されたとされている。同年の秋頃には同じ皇道派の栗原安秀中尉と意見を交わし、村中や香田清貞大尉とともに、翌年3月頃までの決起を目指すことで一致した。
 その予定が早まったのは、12月に第一師団の満州派遣が決定したからだ。栗原が属する師団が渡満すれば戦力が激減し、決起の成功は難しくなる。そのため、磯部らは年末頃から真崎や山下奉文軍事調査部長らと接触し、軍上層部の意向を探り始めている。真崎への訪問では、決起の意志を正直に伝えていたという。
 1936年2月18日、栗原の自宅で攻撃目標の打ち合わせが行われた。決起には近衛歩兵第三連隊、歩兵第一連隊、歩兵第三連隊の一部を使い、岡田啓介首相と高橋是清大蔵大臣を殺害。反陸軍的な西園寺公望元老などの重鎮も暗殺するとともに、軍内の統制派有力者も粛清する。その上で真崎ら皇道派の有力者を立てて、皇道政権を樹立することとした。
 ただし、この時点ではまだ、決起に反対する声もあった。その筆頭だった安藤輝三大尉は、法廷闘争の利用を提言している。1月28日から始まった相沢事件の軍法会議は、真崎が出廷するほど大規模となっていた。このまま裁判を通じて軍と政府の腐敗を世間に知らしめ、国内世間を味方に付けるべきだとしたのである。
 だが磯部は、実力解決にこだわってこれを拒否。再三の説得で、安藤も22日に武力蜂起に同意した。同日には野中四郎大尉が決起表明文を磯部らに渡し、24日からの会合にて計画の具体案が決定された。そして2月26日早朝、昭和維新は決行されることになる。

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