太平洋戦争はこうしてはじまった64

昭和天皇の開戦裁下

 1941年11月29日、昭和天皇と首相経験者による昼食会が開かれた。開戦に対する重臣の意見を徴するのが目的だったが、避戦を口にする者はいなかった。米内光政が「ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならぬよう」と忠告したのが、目立った程度であるという。
 その後に実施された連絡会議では、全員が異議なく対米英蘭戦争開戦に決したと「機密日誌」の11月29日付に記されている。また御前会議の議題の議論と独伊外交処置の確認も行われ、外務省の要請で12月8日の開戦日時が海軍から明らかにされている。
 こうした開戦準備を天皇は容認していたが、内心を吐露したこともある。連絡会議翌日の11月30日、参内した高松宮宣仁親王と戦争の見通しを議論するさなか、「敗けはせぬかと思う」と述べたという。しかし立憲国の君主なので軍と政府の見解を拒否できず、もし拒否すればクーデターの勃発でより強固な戦争論が蔓延する、とつづけている。
 それでも迷いはあったらしく、木戸幸一内大臣の勧めで東条英機首相と軍令部総長、海軍大臣に意見を確認。ここで嶋田繁太郎海相は「ドイツが止めても差し支えなし」と豪語したがため、天皇は会談後に「予定の通り進むるよう首相に伝えよ」と木戸に下命した。最終決断は事実上、ここに下された。
 12月1日、開戦前最後の御前会議が開催された。政府軍部の高官のみならず、政府全閣僚が出席するという異例の態勢だ。これによって、御前会議の決定がそのまま閣議決定と見なされることになる。
 会議の冒頭、東条はアメリカへの服従に関する日本の権威失墜を述べ、日中戦の完遂だけでなく国家の存立すら危うくなるとし、開戦に関する審議を求めた。会議の内容は11月5日御前会議とほぼ同じであったが、原嘉道枢密院は空襲に関する防火防災について東条に詰問している。長期戦による民心の安定も危惧していたが、開戦そのものには賛同の立場であった。
 かくして、全会一致のもとで昭和天皇はここに開戦を裁下した。翌日14時、陸軍は南方作戦の実施を発令し、海軍も真珠湾に航行中の機動部隊に開戦決定の暗号を発信する。その暗号文が「ニイタカヤマノボレ1208」。12月8日の開戦と真珠湾攻撃決行を示す電文だ。
 ちょうどそのころ、アメリカでは米英間で不可分の密約が成り、英蘭領土への攻撃はアメリカへの攻撃と同義となった。日米の戦争体制はここに完成し、運命の12月8日を迎えることになる。

本記事へのお問い合わせ先
info@take-o.net

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?