太平洋戦争はこうしてはじまった⑭

主婦による抗議行動が発端の米騒動

 第一次世界大戦はヨーロッパの経済を疲弊させ、代って好景気となったのが戦場とならなかったアメリカと日本だ。とくに日本は、この大戦景気で未曽有の好景気に突入する。企業の事業資金は1914年からの5年間で16倍に上昇。国内総生産(GDP)における鉱工業の割合も1918年までに約30%までに上昇したとされる。
 各地の都市化が急激に進んだのもこの時期だ。ただ、工場労働者の賃金は上昇したのだが、その一方で物価の上昇が貧困層の生活を圧迫していく。なかでも食料価格は、大戦前の約2倍にまで上がっている。深刻だったのが米価の高騰だ。
 大正時代は生活水準の向上で米の消費量が急上昇した時期でもあり、大戦景気の1914年から18年にかけての消費量は、1人当たり8.9%も増えていた。そこに人口急増も合わさって、国内は米不足に陥りつつあった。
 朝鮮や台湾方面などの米輸入も行われていたが、米穀消費の急増には対応しきれず米価は上昇をつづける。政府は外米(南方産の米)の輸入管理を行う「外国米管理令」、価格統制の「暴利取締令」、米価操作と穀類の強制収用をするための「穀類収用令」で事態の収拾を目指したが、米不足と価格高騰は止まらなかった。
 そこにシベリア出兵を見越した商人の買い占めと売り惜しみが重なり、米価は2倍から3倍もの暴騰を見せたのである。こうした米価暴騰で発生した事件が「米騒動」だ。
 そのはじまりは、1918年7月23日に富山県魚津町の女性たちが起こした抗議活動である。約50人の主婦や関係者が船への米積み込みを妨害しようとし、このときは警官の出動で解散となる。しかし、騒動が富山県各地に飛び火すると、新聞各社はこれを「女一揆」として全国に報道。騒動は日本全国に波及していく。
 当初は漁村や農村だけだった騒動も、8月に入ると広島の呉海軍工廠、九州・中国地方の各炭鉱、和歌山県や神戸市内の被差別部落など様々な人々が決起。8月11日には大阪の天王寺公会堂にて米価調節を目指す国民大会が開かれ、府庁や市内の米屋を襲撃する。神戸の鈴木商店のように、買い占めをした、といううわさだけで焼き討ちされた企業も多かったという。
 軍が出動した地域もあったというが、寺内内閣は騒動に有効的な手を打てず、9月以降の自然消滅を待つほかなかった。米騒動が確認された都道府県は、沖縄などを除く1道3府38県。参加者は70万人以上とされている。なお、寺内正毅首相の総辞職は米騒動が原因という説もある。

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