太平洋戦争はこうしてはじまった㊿

枢軸国の軍事同盟「日独伊三国同盟」締結


 独ソ不可侵条約による対外戦略の見直しにおいて、陸軍内では意見が統一されなかった。高木惣吉海軍大佐の日記によると、陸軍の意見は三つに分かれていたという。独伊接近を続けるか、米英重視に切り替えるか、独自路線を模索するかだ。昭和天皇は陸軍内の混乱に便乗し、三国同盟案の廃案運動に乗り出す。
 当初は池田成彬を首相とした新英米内閣の発足を目指したが、木戸幸一らの反対で頓挫。代わりに組閣の命が下ったのは、陸軍推薦の阿部信行大将である。
 1939年8月28日に参内した阿部に、天皇は米英協調外交の促進を促している。また陸軍大臣畑俊六は、天皇自らが推薦した候補者の一人だった。こうした内閣への介入で、天皇は親英米路線への転換を狙ったが、阿部内閣は8月30日の組閣から約4ヶ月後に総辞職。主な原因は経済政策の失敗だ。翌年1月16日には米内光政が首相となり、米英関係改善は既定路線となりつつあった。
 このように日本の政治が揺れる中、欧州ではドイツ軍がポーランドに侵攻した。1939年9月1日のことである。29日に首都ワルシャワが占領されると、1940年6月までにノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギーが陥落。フランスも6月14日にパリを落とされ休戦条約が結ばれた。
 このドイツの快進撃で、陸軍内の親独派も息を吹き返した。6月19日には陸軍省内で新戦争指導計画が作成され、7月3日に「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」として陸軍の基本方針となる。内容は独伊との結束強化による南方進出で、対英戦も視野に入れていた。
 米内内閣は陸相の辞任で7月16日に総辞職。第二次近衛文麿内閣が誕生する。陸軍と近衛はドイツ中心の新秩序は目前と予想し、日本もそれに連携すべきと考えた。このとき生まれた流行語が、「バスに乗り遅れるな」というスローガンだ。
 ドイツは日本の再接近を歓迎しなかったというが、アメリカ参戦阻止の抑止力として期待を寄せるようになる。松岡洋右外相も同盟成立を強烈に推し進め、海軍も反対派筆頭の吉田善吾海相の辞任で反対意見を引き下げた。かくして 1940年9月27日、日本はドイツ・イタリアと軍事同盟案に調印。「日独伊三国同盟」が成立したのである。

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