太平洋戦争はこうしてはじまった⑪

得るもののなかった「国防の暗黒史」

 シベリア出兵が順調に進んだのは遠征当初だけだ。シベリア一帯は冬に気温がマイナス40度を下回り、極寒に不慣れな日本兵や凍傷や内臓疾患に苦しんだ。そこに襲い掛かったのが、赤化パルチザンと呼ばれる民兵組織である。
 1919年2月25日にはアムール州ユフタ近辺にて香田小隊がパルチザンの奇襲で全滅。救援に赴いた田中小隊も隊長の田中勝輔少佐を含めた約150人が戦死し、翌日には支援に来た西川小隊と森山小隊の兵士約100人が戦死するという大敗を喫している。
 この「田中事件」を含めたパルチザンに悩まされた日本軍はたびたび村落を焼き討ちしたが、一般人の犠牲も多数出してしまった。米英の支援で反革命政権が成立するなど部分的には成功していたが、出兵全体の見通しは不透明なままだった。
 そうした最中に起きたのが、第一次世界大戦の終戦だ。1918年11月11日にドイツと連合国間に休戦協定が結ばれたことで、東部戦線再構築の必要はなくなった。チェコ軍団救出もすでに目途が立ち、シベリア出兵を続ける大義名分はなくなったのである。そのため英仏は大正8年秋頃より撤退を開始。アメリカも1920年1月より手を引き始め、反革命政権の指導者コルチャーク提督も2月に赤軍が処刑した。
 だが日本は派兵目的を「過激派からの防衛」に変え、ただ一国だけ駐留を続行する。しかしシベリアに兵を分散していた日本軍は苦戦が続き、3月12日にはアムール河口のニコラエフスクにて日本陸軍の第3大隊と海軍通信隊約370人がパルチザンに大敗。救援が決行された5月25日に監獄で拘束中の生き残り兵全員を処刑する「尼港事件」が起きた。
 死者数は軍民合わせて735人ともいわれ、日本軍は報復として北樺太を占領したが、大義のない戦いに兵の士気は極度に悪化していたようだ。結局、国内からの批判が高まった結果、日本軍はシベリアからの撤退を決断。7月21日より撤兵作業は段階的に行われ、北樺太からの撤退完了は1925年5月15日のことだった。
 シベリア派兵に投入された戦費は約7億410万円。これは国家の平均年間予算の約半分に相当する額であり、戦死者と病死者は合計3333人にもなった。それだけの出費を重ねても、シベリア出兵で日本が得たものはほとんどない。そのため現代では、シベリア出兵を「国防の暗黒史」と呼んでいる。

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