太平洋戦争はこうしてはじまった54

独ソ開戦にともなう南進論と北進論


 内閣で松岡外しが本格化していた1941年6月22日、ドイツは不可侵条約を破りソ連へと侵攻した。すでに日本は、4月頃からドイツに対ソ開戦の可能性をほのめかされており、陸海軍内では独ソ開戦後の行動についての議論が交わされていた。
 まとまった方針は大きく分けて二つ。独ソ開戦による北方脅威の低下を狙い、南方資源地帯への進出を狙う「南進論」。ドイツに呼応して極東ソ連軍を攻撃するという「北進論」である。南北どちらも攻撃せず、兵力充実を目指す「準備陣」という主張もあったが主流にはならなかった。
 南進論の支持勢力は南方進出を目指す海軍で、対ソ戦を基本戦略とする陸軍が北進論を支持したというのが通説だ。しかし実際は、英米と敵対しかねない南進政策に海軍は消極的であり、一方の陸軍内にも南進論者がいたように、単純な二極構造ではなかったようだ。そうした議論に軍部が揺れる最中に、独ソ戦は幕を開けた。
 開戦翌日の6月23日、海軍の軍令部と陸軍参謀本部の両作戦部長を中心とした会議が開かれる。この会議で策定された「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」では陸海軍双方に譲歩し、対ソ開戦は「独ソ戦が日本の有利に進展した場合」と定められた。つまりは、ドイツの攻撃でソ連の劣勢が確定すれば、中立条約を破棄するとしたのである。果実が熟して落ちてくる光景にたとえ、「熟柿主義」とも呼ばれている。
 この国策要綱は7月2日の御前会議で裁可され、参謀本部は極東ソ連軍の総合戦力の半減を侵攻開始の目安とした。きたるべきソ連侵攻に備えるため、陸軍は7月13日より満ソ国境への兵力大動員を実行に移す。満州・朝鮮を中心に14個師団、さらに本土や華北から6個師団を動員した大増強は「関東軍特種演習(関特演)」と呼ばれたが、結局はドイツの進軍停滞で北進は事実上の中止となる。
 そうなると、必然的に南進論が主流となっていく。すでに軍部と政府は、6月11日の連絡懇談会で仏印の軍事的統合と進駐準備を決定しており、7月14日よりフランス・ヴィジー政権との交渉が開始されている。北進論者の松岡洋右は強く反対したが、日本の要求は7月21日に受諾され、現地部隊も23日に進駐を承諾した。

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