太平洋戦争はこうしてはじまった60

日米交渉の甲案と乙案


 新帝国国策要領の議論がまとまると、連絡会議は日米交渉案の協議に入った。まず、東郷茂徳外相はふたつの譲歩案を提示した。ひとつは「甲案」。9月25日の和解案をさらに緩和したもので、三国同盟については日本政府の独自解釈で処理、大陸からは2年以内に撤退するが華北と内蒙古の一部地域と海南島には日華基本条約に基づき5年駐屯し、仏印からも順次撤退するとした。
 この案が提示されると、東郷は激しい非難にさらされた。即時撤兵を拒否する陸海軍はもちろん、外務省や和平派からも「譲歩に失する」と根強く反対される。東郷は孤立無援におちいり、撤兵期間を5年から25年に引き上げることで甲案は成立を見た。
 ただし、甲案が拒否される可能性もあった。そこで用意された第二案が「乙案」だ。吉田茂元駐英大使が持参した幣原喜重郎元外相作の初期案に、中国関係の条項を追加修正した妥協案である。その内容は、日米両政府の仏印以外のアジア・太平洋への武力進出禁止、蘭印地方における日米の相互協力、さらに日本への経済制裁と資産凍結解除をアメリカに求め、日中和平か太平洋方面の日米平和確立後に日本軍は南部仏印から撤退するとされていた。
 陸海軍は、この案にも反発している。すでに軍部は開戦に傾ききっており、へたな交渉はアメリカの開戦遅延策に利用されると考えたからだ。しかし結局は乙案も軍部に承認されている。参謀総長杉山元の覚え書によると、陸軍は乙案でも交渉成立は難しいと判断し、むしろ東郷の辞職による政変を危惧して採用を認めたという。
 こうして新たな開戦方針の合意と同時に、甲乙二案を軸とする日米交渉の新基盤も確立した。1941年11月3日には来栖三郎大使の対米派遣が検討され、4日には駐米大使館あてに甲乙案が送信された。そして5日の御前会議での決定により、甲案をもとにした交渉が行われることになる。
 とはいえ東郷本人は、すでに成功の希望をなくしていた。要領承認の御前会議で昭和天皇に交渉成立の見込みを尋ねられた際も、成立は望み薄と答えている。実際、7日のコーデル・ハル国務長官との会談は不調に終わり、10日のルーズベルト大統領との対話も成果はなかった。20日には乙案提示を本省より訓令されるも、日本優位の内容に難色を示された。陸軍や東郷の予想通りに、日米和解は絶望的となっていったのである。

本記事へのお問い合わせ先
info@take-o.net

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?