武器を使わない情報戦ープロパガンダ⑨

捏造報道の代名詞である「大本営発表」とは

戦時下に設置された臨時組織の大本営

 大本営とは戦時下に設置される日本軍の最高統帥機関のことで、流した戦局報道が大本営発表である。おもに軍部が展開する作戦に関する報道とされ、人事や軍政、重要度の低い作戦報道は「陸・海軍省発表」や現地部隊の名を取り「〇〇軍発表」と呼ばれていた。
 1893年5月公布の戦時大本営条例によって設置された大本営は、日清戦争から太平洋戦争までの戦争ごとに設置されては陸海軍を指導。統帥権を持つ天皇を頂点とし、大本営陸海軍部が奉勅命令(天皇の命令)をもとに作戦計画を練り、大陸令・大海令として各部隊に発令する。しかし天皇が作戦を直接指揮することはまずなく、実際の戦争指導は陸軍部の参謀本部と海軍部の軍令部が個別に行っていたのである。
 大本営で報道を担当したのが「陸軍報道部」と「海軍報道部」だ。陸軍報道部は陸軍省新聞班が改称した部署であり、海軍報道部も海軍省軍事普及部が変化したものだ。そのため戦局報道も陸海軍でバラバラに行なわれていた。
 両報道部が統合されて報道が一本化されたのは1945年5月。つまり、終戦直前まで統一された報道体制は敷かれていなかったのである。加えて陸海軍の相互チェックも、情報精査機関もなかったので、捏造を発表に組み込みやすい体制となっていたのだ。

当初は正確さを重んじていた大本営発表

 では、これら報道部は大本営発表をどういったプロセスで制作したのか。陸軍を例にとると、まず前線の戦闘報告が届くと参謀本部が天皇に戦況を上奏する。それから定例幹部会議で、機密情報と一般公開可能な情報に分類されていく。
 次に報道部の担当者が、公開可能な情報をもとに発表文の原案を作成。陸海軍共同発表の場合は両報道部の間で協議が行なわれるが、単独場合は部内で完結した。
 ただし、原案が完成しても即座に発表はできない。軍の公式発表なので、関係部署の添削と許可が必要だったからだ。たとえば、陸軍作戦に関する報道であれば、参謀本部の作戦部と作戦課の承認が必要だった。
 そして許可が下りた発表文は軍内の記者クラブで読みあげられ、資料の配布や解説も行なわれた。その後はクラブ所属の記者達が記事を書き、新聞やラジオで発表。海軍の場合も似たような流れである。
 現在でこそ捏造報道の代名詞である大本営発表だが、太平洋戦争初期は正確さを重んじていた。海軍報道部部長の前田直大佐も1941年12月9日のラジオにて、「正確を期するために発表が遅れることもある」と述べ、実際に真珠湾攻撃の戦果も3度修正されていた。
 しかし、1942年の春頃より報道にゆがみが生じ出す。1942年5月7日から8日の珊瑚海海戦にて、日本はアメリカ空母1隻を撃沈、自軍も小型空母1隻を喪失した。ところが8日の大本営発表では、アメリカの被害を「戦艦1隻撃沈、空母2隻撃沈」としたのである。あきらかな戦果水増しだった。

被害の過少報告と戦果の水増し

 当時の大本営には現地部隊の報告を信頼しすぎるクセがあり、情報の精査力もとぼしかった。そのため現地部隊の抗議を恐れるがあまり、不確実な戦果をそのまま発表したという。そしてミッドウェー海戦の敗北後は、大本営自身が率先して戦果捏造を手がけることとなったのだ。
 ミッドウェー大敗の報を受けた海軍報道部は、日本の被害を「空母2隻喪失、1隻大破」と過小報告する原案を作成した。日本の敗北を国民に伝えつつ、戦意の低下を防ぐためである。ところが軍令部と軍務局は、ともにこれを却下。敗北の報道そのものが、国民の戦意を削ぐとしたのだ。最終的にミッドウェー海戦の被害は「空母1隻喪失、1隻大破」となり、逆に戦果を「空母2隻撃沈」に水増ししたのである。
 ただ、戦果の捏造自体は日本軍だけでなく、アメリカ軍も劣勢だった緒戦では捏造報道をたびたび行なっている。だが日本の場合は、戦況の悪化で捏造報道が恒常化していった。
 1942年8月からのガダルカナル戦以後は敗北を「転身」、全滅を「玉砕」と言い換えて誤魔化す。このころより発表を疑う国民もいたようだが、特高や隣組の目もあり目立った反抗はなかった。公式報道をチェックするべき新聞各社も軍部と強く癒着しており、大本営発表を止められる者はだれもいなかったのである。
 大本営発表によると、日本は終戦までに米英の戦艦を43隻、空母を84隻沈めたとなっている。実際は戦艦4隻、空母11隻に過ぎず、水増し報道のすさまじさを物語っている。

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