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奥田浩美さんの講義のこと(当日編)


はじめに

前回のnoteでは、本番に向けた予習のことについて書きました。
過去のお話を辿る予習をしていても、今最新の奥田さんのお話ということもあって、新たな話や気付きが幾つもあって。
とても充実した2時間でした。

アカデミーには、今の自分の環境をなんとかしたい、自分を変えたい!という思いを持って入ってきた方が多いように思います。
そんな背景もあってか、「自分が世界にもたらす価値」や「置かれた場所で咲く努力」の話など、みんな引き込まれるように聴いていたように感じられました。

今回私が担ったモデレーターの役割のこともあり、アカデミー生の一人として講義を聴きながら、Zoomに並んだ受講生の表情や反応、チャットへの書き込みなどにも目を向ける事が多くて。
そうして見ていると、受講生の皆さんの顔がどんどん明るくなっていき、目がキラキラと。
その変化もとても印象的でした。

私の中で印象深かった大きく3つのお話について、
私なりの掘り下げなども交えながら書いて見たいと思います。

私の人生が存在することで、世の中にどんな価値が増えるか?

自分が大切にしている価値が行動の基準であり、
自分が世界にもたらす価値が存在の意味である。
誰もが持っている、自分らしい力の源。


画面に映し出された、幾つもの言葉。
「愛」、「強烈」、「自由」、「献身」などなど。
そこから、自分の価値を表現する言葉を一つないし幾つか選び取り、みんなが一斉にZoomのチャットに打ち込んでいく。
もの凄い勢いで画面が流れてゆく。
「愛」と「勇気」を選んだ方に、アンパンマンみたいだねとすかさずコメントがついたりして。

私が選んだのは、「変化」と「平和」。
「変化」は、大切にしているけれど、願望に近いのかもしれません。徐々に変わることが辛くなってきている実感も。ただ、良い意味での素人感覚で、謎の伝統の数々を刷新してきた実績が。
「平和」は、チーム運営などでも大事にしていること。ギスギス牽制し合ったり、内外に攻撃的になっていても、何も良いことがない。
チームメンバそれぞれの個性や持ち味を尊重し、調和のとれたバランスを生み出して守り育てていく。

何人かに発表をしていただいた後に、奥田さんのチームメンバーそれぞれの「価値」を、4足歩行の動物の横向きでの線画内に配置した絵が投影されました。
「愛」+「希望」を持つ頭に位置する奥田さん、その他の5人は、首元や胴体、前足だったり後ろ足だったり。
後ろに位置する「納得」+「左脳」のメンバーと、後ろ足に位置する「献身」+「技術」のメンバーがある意味、無茶な前進をさせないよう、地に足をつけるような役割を担っていました。
なるほど、チームをこうやって図示するのか、と。

個人ワークの時間で、思い思いに描くことになり、私も私に置き換えて考えてみる。
今所属している開発プロジェクトの最小の単位のチームだと、メンバーと2人になります。

  • 私    「変化」と「平和」

  • メンバー 「努力」と「知識」

さて、どんな絵で囲うのか。私がガンガンいこうぜというリーダーシップではないこともあって、船の機関士(メンバー)と航海士(私)みたいなイメージなのかも。船長は私の上司。

アカデミー生がどんな絵を描いたのか、挙手した方を指名しての発表が続く中、こうやって1人1人の価値とチーム、もしかしたらステークホルダー含めた形を視覚化することで、次のステージが見えやすくなりそうだと感じたのでした。

皆さん誰しも、「私の強みは◯◯です!」と一度は言ったことがあると思うのですよね。
でも、キャリアを積み重ねるたびに、ふわふわとボケていくような。
年齢とともに、口にするのも恥ずかしさが出たりして。

周りのメンバーから見える姿(価値)と、本人の心に秘めた(価値)。
メンバーそれぞれで描き合って、チームの形を描いても良いかもしれない。意外と、知っているようで知らないことも気づけたり。

私含めた1人1人にどんな価値があるのかを知ること。それは、世の中に対する価値。
そして、みんなで認識できるよう、描くことの大切さ。
それを学んだセッションでもありました。

Why now?

なぜ、今なのか。なぜ、過去に解決できなかったのか。


何かに取り組もうとするときに、Why this? Why you?という「問い」は何度も繰り返すことがあると思います。
Why 会社名ということもありますよね。

自分の目の前に、顕在化している(しそうだ)と思える課題があって、使命感のような思いや、時に義務感をもって、場合によっては周囲の危機感もあおりながら、取り組むことを決めるわけです。

でも、そこで一度立ち止まってみる。
3つ目のWhyの問いも、立ててみる。

Why now?

今、必要なのか。
今、始めるのか。
なぜ今ならできるのか。

人類社会は時代の変化・テクノロジーの進歩とともにあって。
それら変化や進歩とともに、顕在化した課題や、そしてそれを解決できる手段が増えていくところも当然あったりします。

時間軸をどう考えるか。

例えば「今」なものをこれから手掛けて1〜2年後にリリースでは機を逃してしまいかねない。
近い将来〜遠い未来それぞれの段階をしっかり見て、これからのテクノロジー×社会の膨大な掛け合わせにフォーカス。解像度を上げて認識できるか。研究者が市民に向けて発信している機会を逃さず、配信を視聴したりお話を聴きにいったり。
インドも、最貧国のような風景がつい数十年前に広がっていたかのようなのに、今ではITの超先進国でもあります。日本へ進出してくる先端企業も増えていますよね。テクノロジーによって、世界はあっという間に大きく変化する。

また、超高齢化社会という分野では課題先進国となる日本、
でも、課題解決先進国ではないと、前回のアカデミーで小国士朗さんがおっしゃっていました。そこに広がるのは、一筋縄では解決できない問題。
だからこそ、一時的なキャンペーンなどではなく、何かしらの「営み」によって、当事者の皆さんが日々の暮らしの中で取り組み続けることができる「仕掛け」も大切。

テクノロジーの目利きと、生活に根ざした社会参画の仕掛け。
この両輪を意識して、今必要という瞬間を見つけること。
そんな気づきのあったセッションでした。

ダイバーシティ→インクルージョンのお話

自分が「まんまる」なまま振る舞える環境

「ダイバーシティ」
会社組織の中で働いていても、週に何度も、場合によっては1日に何回か視野に入ってくる言葉です。

このセッションでは、「ダイバーシティ」から「インクルージョン」へと変化してきているというお話がありました。

単に多様な人材がいる、というのではなくて
1人1人が心地よく振る舞えているか?同じように居心地が良いか。

幼い頃に、父の仕事の関係でニュージーランドで4年ほど暮らしたいたことがあります。
首都ウェリントン郊外の、遠くに港を見下ろせる小高い街。
そこの現地校に5歳から9歳まで通っていました。

当時は日本企業の進出もあって駐在員もそこそこいらっしゃったので、日本語の補習校も併設されていて。午前中は現地生徒と一緒に、午後は日本語学校校舎に移動して。そんな形でした。

現地の子どもたちとの学びの時間は、単にコミュニケーションを取るだけでなく、相手がどんな人で、どんな感情を持っているのか(何が好きで、何が大切で。そして何をされたら嫌か)を知る濃密な時間でもありました。
人種という目線でも色々。持ってくるランチボックスも、おやつも多種多様。誰がいい悪いなんて全く無くて。
休み時間も一緒に遊んだり、何かを協力してつくったり。

でも、時に厳しく接しながらも、暖かく見守ってくれる先生たちのおかげでか、争ったり喧嘩みたいになった記憶はないんですよね。
負の記憶のようなものが思い出せなくて。

どちらかというと、日本語学校の時間のほうが、同学年の人数も少ないし、年上の日本人の子供に気を使ったり、口数が減っていた気もします。
黙々と日本語図書室にこもって本を読んでいたり。
結局日本語学校棟を出て、
懐いていた現地の事務員さんのところにトコトコと行って、
お菓子(落雁が出てくるんです!)をいただいて嬉しそうにしていた記憶も。

今ふと、ニュージーランドでの子供時代のことを思い出したのは、
あの現地校の環境も、ひとつのインクルージョンだったのかも、と。
先住民から移民、国際結婚、各国からの駐在員まで、色んなバックグラウンドを持った家族の子供たちがあの場に集って、同じ時間を共有していた。
ある意味、奇跡のような場所だったのかな。
そんなことも、思いながら。

「置かれた場所で咲く努力」

奥田さんのセッションの話に戻りますが、
インクルージョンの流れから、「置かれた場所で咲く努力」という話が続きました。
どんな場所でも咲ける花も中にはあるのかもしれませんが、
ここで表現されているのは、どんな場所にも学びや成長の機会があるとしたうえで、
そのうえで、まずは自分がどんな花かを知ろうとすること。
そして、「主体的に」もっとこういう場所で咲きたい、と思うこと。
そのことを伝えていただいたように感じました。

自分の価値を認識したうえで、
どんな花として捉えるか。
もしかしたら、阿蘇の野焼きのように、一度地表の雑草や色々を焼いて、
そこからの芽吹きからの花という視点も。

noteの冒頭で、現状への不安や不満といった気持ちを抱いているアカデミー生が多いのでは、というお話をしました。
何を隠そう、私もその1人。
でも、この「置かれた場所で」というキーワードはアカデミー生にも刺さったようで、静かな盛り上がりがありました。

「協調性:概念の違い」

異なる人と協調して社会を創ろうとした際に、
奥田さんの大きなバックグラウンドのひとつであるインドとの比較について
お話ししてくださいました。

  • 日本の協調性は、集団全体の安定や調和、集約によって成り立つ。
    共通の目標という「重なり」によって円滑な関係を築く。

  • インドの協調性は、みんなが入る大きな枠を探す。
    共同体のようなイメージで、それぞれの利益や関係性を調整しながら、枠の広さも拡大する。

インドの協調性のイメージで、枠を広げていけるようなリーダーシップがとれたり、私が入ることで枠が広がって入れる人が増えたら。
それは素晴らしいことですよね。

自身のチームマネジメントを振り返ると、
暗に最小公約数を探しつつも、各メンバーが遊撃のように動けるような枠を確保していたように思います。
ドメスティック企業の組織として最低限求められる日本らしさは維持して、
あとは目標に向かって自由に。

少し、インドに近かったのかもしれませんが、個人の価値、その人が咲かせる花を意識して、枠も拡大できていたか。
今後の取り組みが必要なポイントとなりそうです。

おわりに

このnoteでは、まだまだ語りきれていないお話が幾つもあるのですが、
日曜日の陽射しを浴びつつ振り返りながら、
本番の特に印象深かった学びについてまとめました。

私のやりたいことは何なのか、ワクワクすることは何なのか、
私の喜怒哀楽の中で、「怒」・「哀」にあたることも隠さずに、そこをむしろ手がかりとしながら、実現していきたいこと、アイデアを具体化していきたいと思います。

ここまで読んでいただいた皆様、ありがとうございました。

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