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表現規制はエロとグロから始まった?

「表現規制はエロとグロから始まった」という証言を、信じてはいけない。

ボクは民主主義国において庶民を、無色透明な匿名的存在という風に思っている。
というのも宗旨替え、ダブルスタンダードは当たり前で、その日その日で180度違うことを言っても全然構わないし、そこまでではないにしろ案外テキトーな意見を書いたところで、咎められることもないからだ。

そういう存在である庶民は、善良なる国民だし、それなら自由に発言できるではないか。

とてもいいことだ。

さてその我々の1/3より少し多いくらいが、ずっと一つの政党に政権を任せておいて、表現や言論の自由が忖度や自主規制もされず憲法の条文通りに守られているはずだと考えている。
そして今も表現の自由は大切だね、と賛同してくれる議員さんを増やす努力をしてくれている人たちもいる。

確かに真っ当な方法ではあるし、その尽力には感謝したい。
しかしながらその政党は出来るだけ早く「押し付けられた」憲法を改正したいと訴えており、権利には義務が伴うとか、人権は国賦であるなどなど国民の自由を制限したがっているように見える。表現や言論の自由を守るべしという人たちは、そこにはさほど関心がないようだ。 
もっとも憲法改正で専ら話題になるのは、既に死に体となった九条のことしか、自民党もマスコミも言わないのだから、ムリもない。

さて、男というものは付き合いが長くなれば「世間はそんな風に云うけど、アイツにもいいところがあるんだよ」などと言いがちだ。
政治記者ともなると、夜打ち朝駆けをしているうちに「お前にだから打ち明けるんだが…」という、ある種の秘密の共有を持ちかけられることもあると聞く。

それを記事にするかどうかは、全てその記者に委ねられる。記事になれば、政治家の中には裏切られたと憤る者もいるし、それがお前の仕事だったよな、と責めない者もいたと聴くし、その政治家の死後に記事になることもある。

どうするか?という迷いは、言論の自由に於いては、ない。そこにあるのは配慮だ。

オフレコを記事にした時、必ず批判する者がいるが、それこそお気持ちに過ぎない。

しかしそういう現場の高度な判断を余所に、大手マスコミの社長や論説委員が首相と会食したりするのだ。

そして森友学園の記事をスッパ抜いた記者は左遷された。それをボク達は言論の自由への抑圧と捉えたろうか?

そこで日本国憲法第二十一条をもう一度読んでみてほしい。

1、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2、検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

これを大日本帝国が治安維持を理由に取り締まったことへの反省と解釈する憲法学者もいる。

大日本帝国の憲政は大正時代には、政友会と憲政会の二大政党制であったが、お互いがスキャンダルによる足の引っ張り合いをしたり、政権政党が変わると、重用される官僚までゴッソリ入れ替えるという、スポイルズシステムを採用していた。
だが、その時代の内閣には弱点があった。

組閣にあたり大臣を各省庁から出すことになっていたのだ。
陸海軍省から出す大臣は武官と決まっていたので、予算に不満があれば大臣を辞す、出さないなどといい、内閣を解散に追い込んだり、組閣を阻むことが可能で、実際に行われた。
関東軍の独断専行を許す羽目になった原因の一つでもある。

明治三十七年(1904年)に日露戦争が始まり、日本は辛くも勝利を得た。というのも勝つには勝ったが、その戦費は国家予算の八割にも及んだ挙句に賠償金を取れなかったのだ。そして翌年1905年にロシア第一革命が起きた。日本はこの革命を裏で工作支援して、国力の分断を計っていた、のだが…

「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している、共産主義という妖怪が」というテキストだけを、歴史の時間に習った人は多かろう。これは共産党宣言の書き出しであり、他の欧州各国が同盟を組み、政府に反対する者には、その事実は問わず共産主義者だとレッテルを貼っていることへの、自信と皮肉のようだ。

さて日本ではどうだったか?
弾圧したのだ。大正時代の自由民権運動とは、成人男子には選挙権を持たせるべし、というもので、どんな思想も認めるべし、なんてものではなかった。

とりわけ明治43年の明科事件をきっかけにして起きた幸徳事件は、思想取り締まりのために内務職特別高等課を必要とする、その根拠としてでっち上げられた冤罪といっても過言ではない。

当時の刑事司法ルールからも逸脱し、大審院は傍聴人も弁護士もいない、スピード判決で、しかも上告も認められず二週間後に死刑は執行された。

明科事件とは、三人の社会主義者が貧困を憂いて、現人神という設定の天皇に、爆弾の一つでも投げつけ、血の一つでも流れればただの人間だと分かるだろう、という動機で手作り爆弾の爆発実験をした、というものである。
たしかに、これは未遂ではあるが罪である。

しかし幸徳秋水は違う。
その謀議に参加した疑い、で死刑にされたのだ。そんなはずはない。幸徳秋水は、ずっと箱根の温泉で湯治のため宿泊していたのだから。
そして幸徳秋水は無政府主義者だった。

その頃の日本は、共産主義も無政府主義も社会主義も何も違わないだろうと、一括りに社会主義とし、その思想を唱えたり信奉する者を、主義者と呼んでいた。

そして幸徳事件をきっかけに、大手新聞社も彼らを摘発すべく読者に協力を呼びかけて主義者探しをしたのだ。

当然彼らの集会や出版も規制され、この状況は日本が戦争に負ける昭和20年8月15日まで、厳しくなることはあっても、緩くなることはなかった。

これは日本史の事実であり、また憲法の条文が見事にそれをつたえているのだ。

だから「表現規制はエロとグロから始まった」というのは、その証言者が主義者の表現は規制されて当然と思っていて、良い規制だからと、スッポリ頭から抜け落ちていた、ということになるのだ。

その証言者が無色透明な匿名的存在であるがゆえに。

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