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人間は、生きるだけで努力している。

我々は他人の生活というものを、あまりにも知らないまま暮らしている。
だから案外と困窮に陥った人に気づけないでいる。もちろん困窮者にだってプライドがあって、社会では気取られませんように、と装っていてる。それでいて街並みもそれなりだから、我々は一向に自分ごとに引き寄せられないまま、ある日困窮に陥り、それを気取られまいと装うのだ。

困窮状態ともなればもう消費者金融の枠も使い果たし、後は友人を失う覚悟で金の無心をするか、自治体の福祉課や社会福祉協議会へ行くしかない。しかし生活を詳らかにする、ということがどれほど恥ずかしく、そして屈辱的かを知る人は少ない。
これを体験的に知ることができるのは、生活保護受給者である。

あの一生活保護バッシングは、キャンペーンを仕掛けた連中がいるように感じるが、そのことは置いておこう。

あの生活保護受給者を叩く人々の中には、元生活保護受給者もいたのだが、ご存知だろうか?
そこに私はなんの不思議も感じなかった。

というのも、苦労人の成功者が自分の苦労こそが最高で、他人の苦労を認めたがらないのと、なにも違わない心理だからだ。

生活保護から立ち直った私という矜持は、誰よりも勝る。もちろん過去の私を思い返して心寄せられる人もいるが、いまだに頼っているなんて情けない、恥ずかしい連中だ、あの時の私の苦労は……と自慢できる相手がいないのだ。

だから世間と一緒にバッシングする。

苦労人の成功譚もそれと同一で、生活の屈辱から始まるのだ。

実はこれは物語(ストーリー)であり、物語(ストーリー)でしかない。
というのは、まず成功という結果があって、帰納的に主人公が数々の屈辱や苦労を耐えてきたことが成立するからである。

演繹的にいま数々の屈辱に耐えている人には、その結末は用意されているかは不明なのである。

例を挙げよう。
AKB48初代総監督高橋みなみが「努力は必ず報われる」と、独特のテンポで言ったのは、この帰納的な物語に他ならない。
しかし翌年の総選挙では「『努力は必ず報われる』と信じて」と述べたことで、高橋みなみはまだゴールに到達していない、演繹的に物語を紡ぐ最中にある、と修正したのである。
なにしろ彼女の人生は、おそらくまだまだ先が長いだろうから、努力が必ずしも報われない時だってあるかもしれないではないか。

私は愛と死を見つめる過程で、人生と物語を考えざるを得なくなり、また生活についても同様であったため、努力だけではどうにもならないと思い知った。


ゆえに「人間は生きてるだけで努力している」という人生の先輩の言葉を、座右の銘としている。

助けて!というべき時を分かれ、というのは六ヶ敷い。
しかし間違えれば、死ぬ。
老人ともなれば同世代の訃報に触れたり、近親者の死をそれなりに経験してるだろうが、そんな人ですら死ぬのは初めてだから、そろそろ死ぬかな?と思っても、まだ生きていると胸を撫で下ろすのだ。

だからまだ早いかな?という段階で助けて!と叫ぶのが、良い。
絶対に良い。

助けを求める。
それこそが生きるための努力だ。
生活を詳らかにする屈辱も、努力だ。

それは成功譚のように、人生の途中で切り取った物語とは違って、公言しにくいだろうが生きてるということは努力しているのだ。

57年も生きていれば、帰納的成功物語を語りながら、転落していった者、再び這い上がってきた者、さまざま見てきた。
特に起業家たちは、他人に努力が足りない俺を見てみろ、やらずに文句ばかりいうなと語りたがる。

誰しもが出来ないから、あなたはその地位にあり、私たち相手に儲けることができるのだということが、分からないのだ。
あなたの苦労や努力は、確かにあなたのものだが、その物語は些かズルい。


それに比べると、私たちフィクションの作家が描く物語の主人公は、読んだ者を貶めたりはしない。
その苦労や努力は、読む人を楽しませるためにするのであって、成功譚を早々と誇る者は大体転落することになっている。

人間は生きてるだけで努力している。
それでなんの不都合がある?

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