Twitterで議論なんかしない

Twitterってそういうツールじゃないと思うんです。というか、向いてない。
だって必ず私対不特定多数でしょ?
そんな環境で、議論なんか成り立たないでしょう?

だから、ボクはやりません。

例えばボクの書いたことに賛意を示してくれる人でも、話をしていくと相違点が出てきたりします。ボクはそこで「あ、相違点が見つかりましたね。よかったです」と終わりにするようにしています。

おかしいでしょうか?

ボクは相手が他人なのだから、相違点の一つくらいないと忖度でもされているのではないか?という気分になります。

愛する妻を喪って、はじめて「私と他人は絶対に違う」と、考えることができるようになりました。あんなに一心同体少女隊← だと思っていた妻と同じ日に同じ病で死ぬことすら叶わぬのです。後追い自殺すらできず、ただ駄文を書き散らすことしかできないボクに、妻が遺していったもの。その一つがこの「私と他人は絶対に違う」という、大袈裟にいえば日本国憲法に謳われている「個人の尊重」です。

妻亡き後世界中を、見渡してみても絶対に妻と同じ人はいないことに気づきました。

これは実は私だけではなく、全ての人にとって全ての人がそうなのです。いわば絶対の真理ともいえます。代用とかではなく、新たに特別な人と巡り合うことはあるかもしれませんが、それはやはり妻とは別の人なのです。

従って、私と他人は絶対に違うのだから、意見や観点様々なものが違って当然なのです。
もちろん「いいな」と思える部分があれば嬉しいですし、政治的なイシューであれば連帯を示したりすることもあります。

でも議論はしません。Twitterでは。
本当に時間の無駄ですよ。
特に「代案出せ」というバカ。
じゃあなにか?ボクが代案を出せば納得してくれるのか?採用されるのか?
しないでしょう。
難癖つけられて、私の方が正しいという根拠に利用されるのがオチです。

そもそも代案とは政策や方策が決まる前に、検討をする段階で出すもので、例えば「大阪都構想」への対案は「やらない」これしかないんです。「大阪府構想」こんなもん構想でもなんでもないから言いづらいだけで、選挙公約に対案は必要ないんです。

仮にAという人と議論をして、お互いのいいところを認め合って妥結したとしましょう。
だから何?

そのことについて長々と時間を使ってAと、そのことについて同意を得て、何が変わります?
別のことについては、Aと対立するかもしれない。そんなバカげた時間の使い方をするくらいなら、好きなテレビや映画、音楽を聴いたり、散歩をしたり、新しくできたレストランで食事をしたり、ボクは呑まないけどお酒を飲んだりした方が、よっぽど有意義です。

Twitterの議論好きな連中は、そのほとんどが調伏師です。つまり相手を言い負かして、自分の方が正しいのだから従えという、鼻持ちならない連中です。

彼らはボクのいう「私と他人は絶対に違う」という結論と相入れません。

だから相手にしません。そうだと分かった瞬間にブロックします。別に間違っていても構いません。人間は間違うことはあります。
機会があれば、謝罪すれば済むことです。
謝罪を受け入れない相手とは、付き合わないこと。でしょ?

もし、それでも議論をしなければ…
あまりそういう事態は考えられませんが、そうしなければならなくなったときは、他の人は全てミュート、ブロックして、その相手とだけやりとりをしてください。
やがて相手は疲弊してゆきます。
おそらくその相手は、ボクのこの投稿を読んでいないからです。

それでは、素敵な残暑を。

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