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私はあなたを愛しています

そのような言葉を、私が吐くことは、もう家族以外にはあり得ないだろう。
私は案外惜しげもなく「愛している」という言葉を使い、暮らしてきた。
実の父親にも言ったことがある。
なぜかといえば、みなみ先生の安楽な死は、父のお金によって支えられていたからで、それ故に私は、私の父にありがとうございます、という言葉以上の感謝を伝えるには、それしか相応しくないとおもったからであり、またそこまでの人生についても同様であったから、まるでアメリカ人やイギリス人がするように「愛しています」と伝えたのである。

私にとって、愛とは、愛するひとへの愛であり、友愛、兄弟愛、親子愛、家族愛であり、また愛憎や愛惜といったさまざまな愛を含むのであり、全く自然且つ広範な愛の表現であった。

それは回想をするたびにカタチを変えたりもするけれども、概ねは他人には「美しい」と映るものだろう。

実のところ、他人にどう見られるか?ということにはあまり価値を感じておらず、あくまでも自分の気持ちが如何にあるか、あったか?ということが大事なのであり、その真実は私にしか判らぬことではある。

ただ、私はヘテロセクシャルの男であるから、告白的な意味での愛を語ることはなかろうなあ、ということを言いたくて、記したのだ。
そういうものは、もうたくさんなのだ。

愛る人であろうがなかろうが、死際というものは決して美しくはない。弛緩した肉体は、顎をだらしなく下げ、睡眠時無呼吸症候群宜しくイビキをかく。呼吸が止まっては戻ってこないのではないか?と頸動脈を見つめ、どうしょうもなく垂れ流す糞便を処理する際に、どうしても体勢を変えねばならず、その際に血圧の落ちようものなら、それで仕舞いである。
薬が座薬であれば、尚のこと慎重になる。

私はみなみ先生の糞便を一度も汚らしいと思ったことはないし、実際素手でも処理できた。
ただ、患部の衛生を保つために手を洗うのだ。もちろんその時にはニトリルのグローブはするのだけれど。

考えてみれば、私は誰がしたのかが明らかであれば、糞便を処理することに躊躇がないように思う。その持ち主が申し訳ないと思っていればいるほど、気にすることないですよ、と当たり前に処理できる人間であるように思える。実践したことはないが、己を知っているのである。

はみ出した内臓は?といわれると、それは訓練が足らぬからムリであろう。

従って案外介護職には向いているのかもしてぬが、介護はもう充分やったので職にはしたくないのである。

糞尿の処理など、愛がなくてもできることではあるが、愛があれば本当に心の底から汚いとは思わないのだ。

しかしもう充分に堪能した。
他に愛する女性も要らぬ。
私はもう人生に飽いてしまったからだ。

だからそういう意味での愛していますは、私の中にはもうすっかりないのだ。在庫切れである。


閉店、ガラガラ

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