見出し画像

贅沢は敵だ

戦時中にこの啓発ポスターに、素の一文字を書き足して「贅沢は素敵だ」にしてしまった人がいるのだそうだ。
戦後になると「贅沢はステーキだ」なる言葉が生まれたりと、人々に必要以上に我慢を強いるのはどうかと思う。


誰が?といえば、今時のいいかたを借りれば、上級国民たちが、伝統的にそうしたがるのだ。五公五民だのなんだの、日露戦争の戦費調達のために時限的に設けられた相続税も、元々直間比率の是正を口実に導入された消費税も、いつの間にか法人税を下げた分を補う格好になっている。年金も健康保険も累進性のない課税と見做してよいし、NHKの放送受信料もどうせ国会で予算の承認は受けるのだから、税金のようなものだ。

もっとも私はこの度の引っ越しで、テレビや録画再生機を捨ててしまったので、放送受信料は払わなくてもよいことになった。

前の家で暮らしていた三年間、ほとんどテレビを点けることがなかったし、録画しておいた番組も映画も、残酷なタイムマシンと化した。みなみ先生と暮らしていた幸せな記憶、それはそれで大切なものだが、わざわざ独りきりでそれを愉しめるかといえば、とてもそんな気にはなれない。

大事なニュース、気象予報などはスマホがちゃんと通知してくれるし、新聞のデジタル版は契約している。

もう57年も生きたのだから、最新の流行など追いかける必要もないだろう。

ただそれはそれで贅沢なのだ。
俗世を離れて仏に近づかんとする僧侶も、無農薬で米や野菜を育て、自給自足の生活をするダンサーも、無駄だったり厄介なものを身に纏わなくて済む、なんていうのはね。

問題は必要に足るだけのお金だ。

その総額があらかじめ分かっていれば、苦労はない。
一年間を400万円で暮らすとしても、あと三十年分なら1億2000万円も要る。
インフレになったら足りなくなるし、そもそも

30年後の87歳で死ねなかったらどうする?
私の父など85歳を迎えたあたりから、毎年タケダ家は85歳が寿命といいながら、毎年毎年更新して、今は89歳だ。
計画通りにはいかないのが人生なのだ。

なによりも贅沢なのは、希望通りの歳に希望通りの死様を迎えるのが、人間なによりも贅沢なんだと思う。

それはやはり素敵だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?