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「騙された」「信じてたのに」という甘え〜情熱中国大陸〜

日本では古来より、聖徳太子の和をもって尊となす文化が根付いて来た。
それに加え、相手のことを考えるだけでなく、言わんとしている事を推し量る、一を聞いて十を知る美徳と、更に遠慮する美徳も加わり、世界に類を見ない、独特の素晴らしい島国文化が形成されて来た。

しかしこの小さな美しい島国を出た途端、上記の「騙された、信じてたのに」という言葉は、中国で、日本人の口から頻繁に発せられる事になる。そもそも海外では、自分の意見を言うだけでは足らず、簡潔に、強く主張しないと人には絶対伝わらないからだ。さらに、「言ったのだから、こうしてくれるはず」という甘えた思考と期待は、当然、ことごとく裏切られることになる。

そもそも言っている事さえ正確に伝わっているかも怪しいのに、その言葉の向こうにある意思を汲み取って、更に何かを付け加えて欲しい、多分そうしてくれるだろう、などと勝手に思いこむ事などは、もはや怪奇、日本人以外には摩訶不思議、全く理解不能な事である事を知るべきだ。

相手はそうする義務も責任もない。やるだけの対価と時間さえ明確にしていないからである。
え?対価?金かかるの?サービスしてくれないの?

え?俺は客じゃないの?

え?友達じゃなかったの?

え?どうして頭を使って考えないんだ?

そのぐらい相手の気持ちになれば言わなくても分かるだろう?

え?わからない?

え?うそ、信じられない!

という気持ちが一気に頭に湧き上がるのだ。かくして極端な騙された、信じてたのにという言葉が、日本人の頭の中を埋め尽くしてしまう事になるのだ。そしてずーっと我慢してグツグツと煮えた切った怒りを、何の前触れもなく、火山の噴火のように突然爆発させる日本人に、中国の人は、「??????」となってしまうのである。

嘘だと思う人もいるかもしれないが、日本人の不思議は多かれ少なかれ、このように世界から見られている一面がある事は、紛れもない事実である。何を隠そう私自身も以前はそうだったからよくわかる。

日本人のこのような複雑怪奇な「気持ち」が、非常に高いレベルで「理解」もしくは「思いやり想像出来る」国の人は、台湾人くらいしか、世界にないのではないかと私は思う。

植民地統治を50年間に渡って、やった国とやられた国、日本と台湾。にも関わらず、今でも良好な民間交流が非常に深い、切っても切れない関係の不思議な両国の関係は、他国にはほぼ理解不能なはずである。

しかし、大地震や大災害時の、両国の人々の行動と心が、全てを物語っている。私自身台湾に留学経験があるが、台湾に行った事のある日本人ならば、ほぼ老若男女を問わず皆、「何とも心地良い感じ」をうけるのではないか。これを否定する人は、おそらく行った事がない人だけだろう。台湾は人が優しい、食べ物が美味しい、と表現される事がよくあるが、とてもそんな言葉だけで説明を済ませるほど浅いものではない。しかし人が優しい、食べ物が美味しい、というのも200%事実である。

物を作る、あるいは何かの取組みをするのには、人が動き、時間と金がかかるのは当然の事。あなたの親でも、恋人でも、台湾人でもない相手が、タダであなたに何かしてくれるはずはなく、むしろタダでそれをしてもらおうと思う事の方が、「うそ!信じられない」事なのである。

特に日本人はよく、常識では考えられないと怒るが、いろんな意味で日本の常識は世界の非常識と昔から言われる由縁である。

しかし概ねの台湾人は、思いやりで理解が出来、日本人に、騙された、信じてたのに、と「言わせたくない」「更に高度な信頼関係を築きたい」とまで思ってくれる人が多いので、付き合ってくれる事も多々あり、それに甘える日本企業も多い。「日本精神は学ばなければならない」等とリップサービスをしながらやせ我慢している流石の彼らでさえ、後になってやはり耐え切れず、根を上げ(=値を上げ)、ある時はキレてしまう。

条件の明確化や、様々な状況を想定した上での意思疎通はとても重要であるが、「どちらに非があるか」という非建設的論議以前に、今現在、当初と全く異なった状況に陥っている今、この時に、「もともとあなたが出来る、と言ったから始めた話だ」などと、全てを棚上げして、言っても仕方のない、そもそも論で相手を責める、そういうシーンを、私は何度となく見てきた。だからやっぱり、「日本の常識は世界の非常識」なのである。

任せた後に起こった問題は、任せた側に問題と責任がある。分かりやすく言うと、人は信じても良いが、仕事は信じてはいけない、と言う事である。起こる問題を予測・準備しなかった自分が悪い。「問題」は必ず100%存在するし、内在された問題が、顕著化するかしないかだけの話だ。任せるというのは言ってみれば博打のようなものだ。
また、逆に言うと、自分で最大限まで最悪の事態を想定し、予測し、対策も立てて、完璧に準備をしてから人に任せる、という人は殆どいない。そこまで出来るなら自分でやればいいからである。

任せた自分が悪い、という事を忘れているから、

「騙された、信じてたのに」という甘えた言葉が出てくるのである。

任せて失敗した時、相手を責めるのは、自分の甘えと弱さである。


私は6〜7年程前、深センで共同出資のウエディングビジネスで失敗した苦い経験がある。私ともう一人の出資者I氏と二人で招集した「撤退会議」の時、仲間であり筆頭株主であるN氏のカッコいい言葉が、今でも忘れられない。

「まあ、マカオのカジノで負けたと思ってさ、次行こうよ!」

一番大損こいて、一番悔しい筈の彼が、皆の前でこう言ったのだ。
誰を責める事もせず、こんな粋な事が言えるくらいの余裕が欲しいものである。

しかし後日、日本で二人で飲んでいる時に、N氏は「いやー、でも竹居さん悔しいよね〜」「リベンジしたいよね」と私だけにしみじみ言うのだ。なんとも人間臭く、「彼に出会って本当に良かったなあ」と私は心の中で思いながらウイスキーを飲んでいた。

つづく

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