選挙における説得について。あるいは公明党について考えたこと

来週のライブリハーサルの帰り道、池袋西口駅前で都議会議員選挙の演説をやっていた。候補者は一段高いところから演説をしていたが、池袋の雑踏にかき消されて「なにか演説しているな」程度しか認識できない。顔なじみの区議会議員が選挙ビラを配っているので1枚受け取ったけどすぐにカバンにしまった。

演説が投票行動にどう繋がっているのかをふと考えた時、演説を聞きに行った経験はそんなに多くない。行くにしても知り合いの候補者が来るから、有名人が来るからという事で見に行ったに過ぎない。比較のために全候補の演説を見に行くなんてことは勿論しないし、政策集を比較することもよっぽど暇じゃないとやらない。

じゃあ僕はどうやって投票先を選んできたかというと、反政権性に基づいて野党勢力に入れてきた。演説で説得されたためしはなく、応援している政治家が話す僕と同じ意見にうなづいていただけ。そもそも対抗の演説はどうツッコミを入れるかばかり注視してたと思う。

ところでみんな投票先を真剣に考えろとか言うけど、それはどういうことなのか。リベラル系の人は特に自民党に投票する人を「考えていない」という言い方するけど、自民党支持者を馬鹿にしている気がするぞ。それはともかく、ほとんどの人は政権支持なら自民党、創価学会員は公明党、反政権なら立憲民主党、国民民主党、共産党など、投票先を決めちゃっている。そこには説得される余地はほぼほぼない。確定した投票先に大抵自動的に自分の評を振り分ける。

それでは議会の構成はほとんど変わることはない。残念だけどそれが現実。コロナ禍以降の政府与党のていたらくをこれだけ目の当たりにしても、立憲民主党をはじめとする現在の野党が政権を取る日は来なさそうだ。あったとしても遥か先のことだろうね。

そもそも僕達はいかに説得されないか壁を作っている。自分自身を党派性にはめ込んでそれ以外の考えにほだされないことが大事だと思い込んでいる。だから「自分で真剣に考えよう」という紋切り型の文言が選挙がはじまるとネットにはあふれ、自分と違う考えをどう潰すかの不毛な戦いが繰り広げられる。

そんな中ぼくは説得されるとはどういうことなのかを考えていた。説得されるというのは敗北なのだろうか。

話は変わるが選挙期間がはじまるずっと前から公明党支持者のお願い行脚がはじまった。都議会議員選挙の時は毎回来るのだが今回はこれまでとは明らかに違った。関東近郊から毎日何組も店を訪れ、公明党候補への支持を求めた。その数1日100名近い日もあった。これまでも来ていた西東京、中野など近いところから、埼玉、神奈川、千葉、そして群馬と、県をまたいで応援に訪れていた。

今回の都議選では公明党が苦戦しているというニュースを観た。苦戦している選挙区というのがまさに豊島区なのである。都議選は公明党にとって結党以来全員当選を続けてきた肝とも言える選挙。それが盤石ではない状況にあるという危機感は創価学会員をつき動かした。

単純にそのエネルギーに僕は圧倒された。たくさんの人が商店街を歩き、買い物に訪れ、Twitterで宣伝してくれた。天気が不安定なこの時期にして多くの人に店を利用してもらい非常に助かった。

ふと父が公明党応援の男性にこんなことを聞いた。
「君のこの行動を突き動かすものは何なのか?」
これに対してその男性はハッキリとこう答えた。
「根本的に、信仰があります」
淀みなく答えたその一言に僕はかなり感動した。

人は選択するための基準を持っている。政治信条、利益、縁者など様々だ。そこに「信仰」は入りうると気づいた。政教分離というが、ことに選択の段には信仰は強く影響する。何故なら信仰は生き方の基準であるから。それは先に示した選択の基準と違うと言いきれるだろうか。

もちろん宗教が絡むと判断が主体的であるかの評価はあるだろう。だけど判断に「信仰がある」と言い切った青年は、とても主体的に語っていたと僕は思った。

そして僕は確実に説得された。今回の都議会議員選挙は公明党の候補に投票するつもりでいる。

説得されるというのはエネルギーを受け取ったということなのかもしれない。細かいエビデンスを重ねて数字や理路で説得しようとするものに反するが、僕は創価学会員の熱意に説得されたのだ。

そもそも僕達は政策比較なんかしていないし、演説も聞いていない。演説を聞いていると思っているものは、ほとんどが聞きたい話題を聞いているに過ぎなかった。または繋がりがあるから応援するという形。
僕達の投票先は選挙が始まるまでもなくほとんど決まっている。反政権なら自民、公明は最初から選択肢から外される。そうやって切り分けられた党派性の中で繰り返される投票で、世の中は変わっていくはずないのだ。

データさえ示せば説得できると思っている人は間違っている。その間違いは、それを理解できない人は馬鹿であるというレッテル貼りにしかならない。

創価学会員の仲間を助けたいという熱意は本当にすごいと思った。リベラルにはそういう熱意が全くない。そこに負け続ける理由があるのではないだろうか。

今回のこの経験で、僕はいかに「説得されるか」を大事にしたいと思った。要するに自分の党派性を超えるために、説得されないように壁を作るのではなく、交流し傾聴しエネルギーにあてられて、常に説得されることを肯定的に捉えようと思ったのだ。

固定化された感性を意識的に解除する。自分自身の責任を一時的に解放して、自由に受け止める器になる。東浩紀が言う観光客の哲学の僕なりの受け止めの展開。無責任に自由に誤配を受け止め、楽しみ、認識を深める。説得されること敗北とせず、新しい世界への扉として楽しむ。そんなことをここしばらくの間で考えた。

さて争点が見出しづらい都議選だが、ひとつ見方を提示しておこう。

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