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「生活」し、時々で私が想ったこと。

2017年1月22日
夜遅くまで浜松中心市街地にある、
『「表現未満、」実験室』でイベントがあって、車を転がして職場に戻って行く中、飲み屋街に往来するイケイケなお兄ちゃんやお姉ちゃんを車から眺めていると、最近色んな人に話聞いてもらっている事がモクモクと湧いてきて、自分で自分に問いかけをしている自分を見つけました。
それというのも、至極単純な話で、決してイケイケなお兄お姉を否定して自己満足しているという事ではなく、当たり前なんですけどイケイケなお兄お姉の楽しみな顔から「楽しそうだな」と思う心と、レッツに関わっていて出会うに出会わない人(障害と呼ばれるものを持つ人)の熱意から感化された自分自身が徐々に世界への視点を変化させていること、その両方が楽しく思う自分と(横柄に聞こえてしまったら残念だけれども)その両方が果たしてどれ程の距離を持って存在しているのかは、私の見ている現実が決して誰かの現実で無いように、私自身の問答でしか語られない寂しさが胸の内に漂うのです。
よくわからないっすね、つまり両方面白いんですが、その両方は混ざりえる事柄なのか、と思った時、う~んと思う自分が居るということなんです。
言うなればイケイケな上昇志向の世界と、感化されてしまった私個人を生んだ些細だけれどもとある個人の熱意、その両方が面白いけれども、そう思う自分は至極私的な体験から思うところなので皆が同様に思うところか、と問われると何も言えない「俺はそう思う」としか言えない、その虚しさなんです。
空想は何処までも飛んでいきます、今日得た感覚が通りすがったヤンチャっ気の有る兄ちゃんにフューっと入り込んで行ったらどうなるんだろう、と。ドラゴンボールのギニュー特戦隊のボディチェンジみたいに。
でも、そんなことは無いわけなんだけれども、それをあきらめたくないと言うか、でもそれってお節介でも有るし、価値観を崩されていく事の暴力性ともぶつかるのだ、と。
ただし、そこに在ること、そして想う事を現し語らうのは誰しもに有る事なんだな、とただただ思うんです。
よくわからなくなってしまいましたが書いてみました。
おしまい

2016年10月5日
昨日仕事帰りに自転車乗って走ってたんです、私。
すると、向こうから部活帰りなのでしょう、
野球のユニフォームを着た少年が歩いてくるわけですよ、
私は臆病な性格なので、
常に外では如何なる事が起ころうとも
すぐに対応できるように身構えているものですから、
大体猫背なんですけれども、
自転車乗ってても丸くてですね、
少年とすれ違ったわけなんですよ、
するとですね、
「くんてぃわっ!」
と脱帽して頭下げられたもんですから
「ぁぶあ、んばわっ(こんばんは)」
としか返せずですね、
私は去ってしまったんですよ。
「おう!ごくろうさんっ!」とでも返せたら良いんですけど、
まぁね、そりゃね。
ふと、考えたらですね、
もしかしたら、知らぬ間に千本ノックとかしたのか私は…
とか思うんですよね、
もしかしたら、あの日拾ってあげたボールを受け取った少年が…
とか思うわけですよ、
でもですよ、
そこらへんはよくわからないものでしてね、
あぁそうか少年は地域の如何なる人にも挨拶をするか、
感心感心
いやいやきっとひげコーチがいるんだ、
とか思いましてね、
そうか、そうか、
「私」とは幾重にも重なってあるのだな、
そうか、そうか、と感心したんです。

おしまい

2018年2月22日
「この業界の人はほとんど鬱だから」
とある酪農家に一週間就農体験をさせてもらった時の奥様の一言だ。
権利も糞も無い製造業の仕事を辞めて「勝手に育児休暇」と決め込んで貯金を切り崩していく生活の中で、
新しい世界を見たい、と思って覗いた世界は「鬱」の巣窟だった。
ここもか…と悲しく思ったのをよく覚えている。

昨日生まれた子牛が、胎内に長居した衰弱から亡くなり、
翌日には糞尿と共に堆肥の山の中にバラバラになって有るのを見た。
目玉の抜けた頭蓋骨に残る頭皮の色合いに理解が追い付かなかった。
なんでまた、こんな事を思い起こしたかというと、
レッツが「観光」をテーマに展示会を行うからだ。
光を観る、とコンセプトが立てられている事からも、
いわゆる観光地に行き、巡るものとしての観光ではなく、
自身の中に光を観る、というとこが肝なのだ。
暗闇の中を頼りなく光を伸ばす。
手持ちのライトがキラッキラッとビー玉のように横たわる乳牛の眼球を光らせる。もう一方の手に持つプラスチック棒で尾骨を打って牛を起き上がらせる。全く言う事を聞かない。
どうでもいいだろほっといてくれ、と言わんばかりに居る。
牛舎に戻ると
「何をお前は見ていたんだ?」解らなかった。
「見る事も見れずに何やってんの?」
一頭の乳牛が別の乳牛に覆いかぶさってたのを、
なに見過ごしてんだお前は、と言われた。
発情の証を見逃すのは酪農家として致命的なのだ。
そんなこん解るか、と思った。

光を観ると書いて観光。
おしまい

2020年5月24日
日々に腹いっぱいである。
深みに入る彼ら。
滑走し、一点に集中し、他を寄せ付けぬ、圧倒的である。
それらを日々目の当たりにしオラッチは忘我混沌と化す。

他方、
数字を追いかけ、
応えは求められない、
答えはひとつなのだから、
かつて在籍した製造業の現場の話である。

悲しいかな、
未だに、
まわりまわっているこの世界は数字を軸とされている、と私は感じる。
応えは求められない、
答えはひとつなのだから、
不可思議極まりない国であり世界である。
そんな世界と私は今あるのだと忘れないでいる。
意味も目的もなく、散々散り散り、飛び交い、方々で芽生え、
そんなことを期待する、
取り留めの無い話を求める。

おしまい

2020年4月25日
スタッフのバーシーさん(高林さん)は実に軽やかである。
「Zoomでオガちゃんとランチ」実に良いアイデアである。
というのも、
コロナコロナのこんなご時世だから
こういうことをしている、というだけでもない。
と、僕は感じる。
コロナだから、
レッツに来れない人との接触手段としてZoomしてみよう、
というのもあるっちゃああるとは思うのだが、
そんなことだけではない、と感じる。
それはオガちゃんの過ごしの背景にある、
「困難さ」が横たわっているから、
と言えるのではなかろうか。
説明しよう。
オガちゃんはファンキーでクラッシュでフレンドリーな青年だ。
レッツにやってくる皆様をブッチギリのスマイルで包容する。
だが、しかしだ、
既にご存知であろうが、
彼の特性として、先行きの不安が感じ取られれば
途端に行動はフリーズし
時が越えに越えようが、
スタッフが幾重にもなって交渉しようが、
日が沈もうが、
目的が成し遂げられなければ、
または魅力的な代替案が浮上しない限りは、
彼の行動が次に進むことは無く
誠に困難な状況に陥るのである、はい。
よく知らない人はオガちゃんとさっさと合ってください( `ー´)ノ
彼と日々向き合うスタッフは各々あの手この手で彼との関わりを探る。
時に喜ばれたり、時に渋られ逃げられたりしながら
彼との関わりを発生・発酵させていく。
発生・発酵の話は、
別にオガちゃんに限定した話ではない、
他の利用者にもある話だし、
障害福祉に限定した話でもない、
僕の家でも、
酪農現場でも、
木型の製造現場でも、
僕は同様のものを感じて生きてきた。
無論、僕だけでなく、どんな人も生きているうえで感じているはずだ、
と期待する。

っていうのは
幾度も無くトライ&エラーを繰り返す面白味や醍醐味、
その深みにハマっていく自分に気付くことは、あらゆる現場で存在し得ることなのである。
それら発生・発酵の中に見え隠れするものは
「困難さ」と向き合うことで現れた創意工夫の数々だ。
それら創意工夫の数々は
「生活の知恵」だとか「アート」だとか
呼び名が付くがそこに心底興味がない。
その創意工夫に至る発生・発酵の深み、
DOPENESS RIGHT HERE
まさにここにあり、なのだ。
今回の「Zoomでオガちゃんとランチ」実に軽やかである。
スタッフのバーシーさん(高林さん)とオガちゃんとの間にある
発生・発酵の果てに現れた事象。
実に軽やかである。
と、僕は思いました。考えすぎか。
おしまい

2015年8月5日
言葉を意思疎通の船として使わない、もしくは使えないとき、思いは身体的な動きや直接的な感情で現されたりしているように思います。
あなたの心情へと思いを巡るとき、必要なものは言葉だけではないものと知りながらも言葉に期待してしまう気持ちを抑え、何が在るかなと目を凝らしたり耳を立てたりします。
障害福祉サービス事業所アルス・ノヴァに勤めながら痛快に思えるのは、ここに居合わせた各個人の見解に期待をかけて生活が営まれている前提は勿論、各々から相手の見解に手を伸ばし続けていることだと思います。スタッフの僕は利用者と向き合い、心情を知りたいと思い、あなたの思いの中に在るものが何なのかに関心を持ちます。
アルス・ノヴァでは音がよく鳴っています。誰かが一人没頭して音の中に入っていたり、誰かと誰かが楽器を鳴らして競うように感情が立ち上がっていたり、僕はその状況を楽しく思うと共にその時間を守りたいとも思います。守りたいと思うのは、その人が言葉を用いて表さずともすでに注がれている視点がその場その場に表れているのでは、と期待しているからです。
再生音を好みのゆっくりしたスピードに変えて再生する彼は、窓辺で揺らす自分の身体と刻まれる音の拍に眼差しを向けているのかもしれない。
石や小さな玩具をタッパーケースで幾度となく打ち鳴らしている彼は、連続した音の向こうで人知れず何かを感じているのかもしれない。それはどんなものだろう。
決まった時間に好みの言葉を叫びながら身体を弾ませる彼は、言葉としてではなく音として好んで発しているのかもしれない。腹から抜けた音と共に浮遊した身体はどうなっているのだろう。
ベースギターをアンプに指しボリュームを一杯に回して音を鳴らす彼は、共に楽器を鳴らすスタッフの表情を追っている。どんな音を鳴らしているかよりもスタッフを振り向かせ注目されたいだけなのではないだろうか。
音を鳴らす、というきっかけを通してその人が大事にしている核のようなものが見え隠れすることがあるのではと期待し「あなたは今、何を思うか?」と想像する。それは音を鳴らすことに限ったことではなく、散歩をしているときや食事をしているとき、靴を履くときなどにも表れているかもしれません。私が音に注目するのは単に私が音に関心があるから拾っているのではないか、そう思います。ただ、目の前の人が好きなり嫌いなり思う事がフッと見えたとき、私は「あ、わかる…」としみじみ思うのです。

2020年10月4日
例の如く21時半に気絶した俺は3時には小便に行き、
4時には意識が覚醒してしまう。
今朝は南が俺を呼んでいる。
「浜へ向かうのだ」何者かが俺の意識に呼びかけた(ファッ)
しかしながら今日は眠い、
しばらく布団でゴロツクが、
暫くして、
静まり返った室内で盗人のように着替え、
家を出、車で20分、最短の浜に到着するが、
驚く程に車が在り駐車できない。
早朝というのに、予想外だった(フォッ)
狭い駐車場に軽だけでなくデカイヴァンやアメ車が密蜜停まり、
見ればサーファーのお兄が尻を出して着替えている。
楽し気だ。
しかし、俺は君の尻を眺めに来たのではない。
駐車を諦めた俺は白羽の広い駐車場を目指す、少しばかり遠い。
到着し、防潮堤に立ち東を向けば朝日である。
湿り気の無い風が穏やかな気持ちにさせてくれる。
気持ち良いのである、5時半。
浜に目をやれば定感覚で釣り人が立っている。
誰も魚を釣っている様子は無い。
しかしそれにしても随分と居る。
5m置きに数百m彼方までズラリである。
その間を悪戯に一人歩いてみる。
誰しもが目的を持って浜に居るようだ。
皆一様に竿を投げジッとしている。
何十人と突っ立っている。
中で俺ぐらいであった、何の目的もなく浜に立って居るのは。
先程の入れなかった浜はサーファー達が、
そして白羽の此処は釣り人が独占しているように思われた。
そして、彼方の浜名には「SUP禁止エリア」のボードが在ったのを思い出す。
そうか、各々のポイントで住み分けがあるのだろう。
浜においても、それぞれの使い方が有るようなのだな。
ふーん、トラブル回避とは言え、なんだかなぁ。
ただただ浜を歩き放心するだけの俺にとっては関係の無いことだ。
俺は何処へ行って居ようが無敵なのである。
しかしなんだ、
浜に来てまでも目的が有るとは何事だ、
要らぬ苛立ちを感じてもきた。
我々は目的が無ければ其処にいてはならぬのか、とさえ。
(嫌々、別に目的無くたって浜には人は来るよ。)

立ち返って、俺自身はどうなのか?
何者かが浜に俺を呼んだのだ、そこに目的など無い。
そう結論付けたが、果たしてそうなのだろうか?
いらぬ、いらぬ、そんなものは…。
どうでもよいではないか。(ケッ)
くだらなく思いながら浜辺を踏みしめてしばらく歩いてゆく。
何処まで歩いても定間隔で釣り人が立っている。
一様に黒っぽい恰好をしている。
いっそのこと徒党を組んで何か商売でもできそうだ、
とも思えてきたが、くだらない考えだ。(コッ)
しばらく歩き、
無心になったところで帰ることにした。
次の日はサーファーがタムロして入れなかった浜にわざわざチャリで向かうことにしよう、そうしよう。おう。
結局いろいろ考えて楽しんじまったな。
しかし、浜は良い。(カッ)
おしまい

2017年9月8日
かたりのヴぁ「レッツと社会」を行って以来、時折、
夢にうなされる事が起こっています。
というのも何故か「前職の夢」を見るのです。
手仕事の現場に立っていて、有り得ない状況から全く作業工程が上手くいかず破綻する夢。
夢から覚めて「あぁ、夢か。」と安堵するという嫌なもので、いい加減この呪縛から解き放たれたいのですが、何故か最近沸き上がる事多い。
というのも、未だに自分自身の中で当時のイズム(ism)がまだ死に切れていないだけでなく「これからも漂うものだ」と思ってしまっている自分が居るからなのでしょう。
2008年頃にTVで見た「たけし文化センター」の報道が僕とレッツの初接触でした。
当時、納期の波に追われ続け、何時になったら・何者に成ったらこの波が終わるのか、と酩酊している中で「たけし文化センター」のコンセプトを語る久保田さんを見た時、
「俺には個人というものは無い」と絶望的に自覚した事を今でも覚えています。社会に出て、生きていく事は「私」を捨てなければ生きていけないとまで思っていました。
レッツのイズム(ism)は、社会に出る前の僕自身に近いものです。「誰しもが自分を失わずに居られる事ができると良い」と昔から思っていました。
しかし、社会に出て自分を失ってでも働かなければならない現実(私でいえば「前職の製造業現場イズム(ism)」の渦中)に溺れてしまっている時、その両者のイズム(ism)は如何程の距離を持って存在しているのか。

それは、アンポンタンな僕には未だに整理がついていません。
だから最近、悪夢を見るのかもしれません。
おしまい

2019年10月9日
目覚めて、家族とテンヤワンヤしたり笑ったり怒れたりして、
急ぎ足で出掛け、
日中、知的や精神の障害を持つといわれる皆さんや何考えてんのかようわからんスタッフ達とテンヤワンヤしたり笑ったり怒れたりして、
急ぎ足で自宅に帰って、
またも家族とテンヤワンヤしたり笑ったり怒れたりして、
一日を終え明日に備えて眠る。
終始急ぎ足だが、
おそらく人生の中で今現在の「この時」が最もたる幸福の中だろうな。
これ以上は無さそうだ。
「この時」は決して共有され得ない。
対峙しうる空間に満ち、消える。
この小さな充足がわたしの目を変え心を変えわたしの世界を変えうるのだ。

おしまい

認定NPO法人クリエイティブサポートレッツ
障害福祉サービス事業所アルス・ノヴァ
佐藤啓太

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