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中途半端な午後のこと

確か、非二元だとか覚醒だとか、そんな本を斜め読みしていた時である。

Amazon Kindleに入会したことから、気軽にいろんな本に手を出すのは良いのだが、無料というのは良くないなぁとも思う。その本に対する姿勢がやっぱり違ってきてしまう。舐めるように大事に読むという、気が削がれてしまう。

それでなくとも、非二元だとか覚醒だとか、しかも翻訳となればどうしても、文章をそのままに消化するわけにもいかず、つい、斜め読みしてしまう。それがいいのか悪いのかはわからない。

この身体が私たちの本質ではない、真我のビジョンのエッセンスが語られているところを読んでいた。その文脈とは少し違うのだが、ふと、思い出したことがあった。



二十代の頃、中型自動二輪、つまりオートバイを乗り回していた。他の同年代の友達が車の免許を取り出す頃に私は、車は乗せてもらうもの、バイクは乗るものという謎の格言を持っていて、中型二輪の免許を取った。
その頃は、駅からバスの所の実家住まいだったので、車だと家族、特に親にアッシーに(何という年代物のコトバ、、、)使われることを警戒していたのだと思う。
その点、バイクは自由への足掛かりだった。


実家は兵庫県のいわゆる郊外のベッドタウンで、すぐ裏は六甲山だったが、当時既に二輪車乗り入れ禁止の所もあり、暴走族や峠の走り屋のイメージがあったので、そこは避けて主に北摂の山間部へ走りに行っていた。
のちに、仕事場でツーリング仲間と出会うことになるのだが、その時は一人で、自分でルートを探してコツコツ慣らし運転をしていたのである。


どこへ行っていたのか経緯は忘れてしまったのだか、どこかの街中の喫茶店で、休憩しながら帰り道のルートを練っていた。
真っ直ぐストンと帰るには中途半端な夕方に近い昼下がり、あともう一つぐらい峠越えをしてもいいかな、と。
今まで通ったことのないルートを選んで、よし、と店を出た。


今のようにナビもスマホもない時代、車の運転のように片手で地図をペラペラという訳にもいかず(それも良くない行為だが)、オートバイを停めてグローブを外して地図引っ張り出して、、、が面倒なので、頭にルートを叩き込んで行けるところまで行くのがスタイルだった。
タンクバックに地図が見えるようセットしていても、ルート通りに走れているかどうかは分からない。
街中では標識もあるので、チェックしやすいが、郊外になればなるほど目印も標識もなく、ましてや山間部に入ると急に道路幅が狭くなったり、段々と心細くなる。


初めてのルート、さっきまで差していた陽もどんよりとした雲に隠れ、その雲の向こうでも陽が傾いていく。
ヘルメットの中で風の音がくぐもって聞こえる。さっきまでの街の音、人や車の動き、灯り、色彩、何もかもが嘘のように、
単調な風切り音、単調な一本道、グレーの空に色彩の少ない景色、何か何処か遠くに吸い込まれていくような不思議な感覚がした。


ふと、厚く敷き詰めたような雲の中にポッカリと私の顔が浮かび、グレーの景色の中を走っている私を見ていた。


一瞥体験、ワンネス感覚というには(当時はそんな言葉も概念も知らなかったのだが)、少し程遠いような、不気味といえば不気味な感覚だった。
色彩が無かったような記憶がある。


雲に浮かんだ私はなんの感情もなく、ただ景色を見下ろしていた、その中にたまたま走る私の姿がただある、という感じだった。


どこかで、さっきまでのカラフルで賑やかなあの世界は、もう嘘になってしまったのだと思った。
死んでしまうってこんな感じなんだろうかと。


その頃好きな人がいて、けれどもとても苦しい恋で、死んでしまったらあの人の記憶からも消えてしまうのだろうなぁと、寂しいようでなにかキッパリとした清々しさもあるような、諦めるような、それはそれでいいのだと納得するような、そんな事想いながら走り続けていた。


その後がどうだったとか、前後のことはまるで覚えていない。その体験すらも今の今まで忘れていた。



それをただ思い出した、というだけで
さて、ここからどう落ちをつけたものか。



オカルトっぽくするならば、実はオートバイ事故で私は既に死んでいて、今このここに居るというのは夢だった、、、とか
もっとスピっぽくするならば、実は我々は既に覚醒していて、忘れているだけなのだ、、、とか
いやいや、そんな記憶自体が夢マボロシだ、、、とか?

解釈を考えるのが面倒になってきたので、筆を置くことにする。
中途半端な午後にとある喫茶店にて。


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