『作者のひみつ(仮)』改 第9章

9章 「作者の死」について


 季節も秋を迎え大学のキャンパスを歩く人たちも装いを変えてきています。いつもの木曜日の午後、いつもの研究室に三人が集まっています。あいかわらずTシャツにデニム姿の大学生ですが、なんとなく浮かれているように見えます。逆に夏の制服の上にカーディガンを羽織った高校生が浮かぬ顔をしているのですが、どうしたのでしょうか。かわりに先生に聞いてもらいましょう。
―そうですか。教員採用試験が終ったんですか。
―はい。まだ他県の試験もあるんですが、本命の試験は終ったのでほっとしてます。
―ということは手応えはあったということですか。
―今の自分にできることは全部やったって感じですかね。これでダメなら実力不足ということで、来年を目指しますよ。
―いいなあ、終った人は。
―カオルさんはこれから本格的な入試シーズンですね。
―はい。模試の結果が出たのですが、判定がよくなくて最終進路を決める三者面談が憂鬱なのです。
―夏休み中にオープンキャンパスに行って、すごくやる気になってたっておばさんから聞いてたけど。
―それは模試を受ける前だったの。せっかく目標が決まったのに、今の点数だとかなり厳しいみたいで。
―まあまあ。この時期の判定なんてあてにならないよ。C判定だったけど、その後猛勉したらこの大学受かったし。
―うーん。受験科目の中に苦手なのがあるのが、もう憂鬱で憂鬱で。
―そういう時は全然違うことをするのもいいんじゃないの。作者とか小説の話をしたら気分転換になるかもよ。
―人のことだと思って気楽だなあ。でも、そうだね。じゃあ、よろしくお願いします。
―はい。先に参考文献について連絡しておきましたが、今日はこれまでと少し違う話になるので、なぜ作者が作品に対して特別な存在と考えられているのか、について簡単に振り返ってみてください。
―あ、はい。まず、作者は作品=商品の売り手として作品に結びつけられています。それを保証しているのが法律で定められている著作権で、作者は著作者すなわし作品の所有者であるわけです。さらに著作者人格権という権利では作品を作者の人格そのものと見なしています。だから、作者は作品を作った者であるだけではなく、作品を所有する者であり、作品を説明することができる者でもある。
―一人でずっと話してもらうのも大変なので、選手交代しましょうか。それだけだと、作者の存在が人々に意識されることはないですよね?
―え、あ、了解です。その作者の存在を社会に伝えてるのが、〈仲介者〉です。出版社やそこで働く編集者、雑誌・新聞・本で作品を紹介する評論家、本を売る書店員、あと国語の授業で作品を取りあげる教員が〈仲介者〉です。読者は作者や作品のとらえ方を〈仲介者〉に影響されます。
―そうそう。では、〈仲介者〉が作者や作品を取りあげ、読者を導く時に材料とするものに、どのようなものがありますか? 
―はい。たとえば作者の肖像写真、作者自身が書いた自作解説を出版し、また言及することで作者と作品との関係を強化しています。さらに、他の情報と合わせて伝記・評伝や年譜を書いて、わかりやすく読者に作者の情報を伝えます。
―そう、そこまで話していましたね。〈仲介者〉によって作者は作品と強く結びつけられ、特別な存在となる。作者は作品を生み出し、作品のことをもっともよく理解している。その作者について知ることで、作品についてより理解が深まる。でも、この考え方については、次のように疑問を述べることができますよね。

・作者の所有・支配は作品の内容全てに適用されるのだろうか?
・そうではないとしたら、自作解説は作品の全てを説明するのだろうか?
・そもそも作品は作者の意図通りに書かれるものなのだろうか?
・そうではないとしたら作者の意図通りに作品を読むのは正しいのだろうか?

―所有・支配が作品の内容にまで適用される、ってのはなんですか?
―次の疑問と関連させるとわかりやすいと思うな。作者が著作者として商品としての作品に対する権利を持っているし、作品は作者の人格そのものだと認められているけれども、作品の隅々まで見通して把握しているものなのか、ということですよね。
―そうですね。たとえば、子供は親から生れて、成人するまでは親に支えられて育つわけですが、親は子供のことを全て把握できているものだろうか、と考えてみたらわかりやすいかもしれませんね。
―確かに、ぜんっぜん把握できてないですね。
―そうだよね。
―そこは二人とも一致するんですね。でも、私もそう思いますよ。子供には親に理解できないところがあって当然ですし、だからこそ個人と言えるのだし、さらには人間の多様性も生れる。もちろん、親の知らないところで一人で様々なものと出会って成長していく人間と、作品とは同じではないですけどね。
―でも、作品も様々な読者と出会って、様々な読み方を見出されて成長していく、という風には考えられないですか? 最初は作者と結びつけられて読まれていても、だんだん作者離れして新しい読み方が出来てくる。
―なるほどなるほど。子供が親離れするように、作品も作者離れするわけか。
―人のマネしないでもらえる?
―いや、すごく納得したんで。作品は作者の意図通りに書かれる、ってのは志賀直哉の「城の崎にて」を読んだ時の話ですよね。あと、自作解説に出てくる「意図」ってのはあてにならない、という話。
―はい。そんな不確かな「意図」に縛られて読む必要はあるのか、ということです。「正しい」という少し強めの言い方をしてしまっていますが、そんな不自由をわざわざ引き受けるのは楽しくないんじゃないか、と思いますね。もちろん、世の中には自ら不自由を選び取る人もいるわけですが、私は嬉しくありません。私のように考える人は他にもいて、その人たちが参照するのがロラン・バルトによる「作者の死」というテクストです。
―テクスト! 「作者の死」のもその言葉が出てきましたし、講義でも聞いたことがあるんですけど、テクストってなんなんですか?
―本文中で定義してあったよね。ええっと、ここここ。「テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが、結びつき、異議をとなえあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である」(1)。
―いや、それがぜんっぜんわかんない。「多次元」とか「文化の中心」ってなんのこと?
―確かに、抽象度の高い文章ですし、フランス文学の知識が無いとわかりにくいところもあるかもしれないので、みんなで読んでみましょう。まずは冒頭部、ここもバルザックの小説の話から始まるので、とまどう人もいるかもしれませんね。

 中編小説『サラジーヌ』のなかで、バルザックは、ある女装した去勢者について語り、つぎのような文を書いている。《それは女特有のとつぜんの恐れ、訳のわからない気まぐれ、本能的な不安、いわれのない大胆さ、虚勢、えもいわれぬ感情のこまやかさをもった、まぎれもない女だった》と。しかし、こう語っているのは誰か? 女の下に隠されている去勢者を無視していたいこの中編の主人公か? 個人的経験によって、ある「女性」哲学をもつようになったバルザック個人か? 女らしさについて《文学的》意見を述べる作者バルザックか? 万人共通の思慮分別か? ロマン主義的な心理学か? それを知ることは永久に不可能であろう。

―「サラジーヌ」という小説、図書館に岩波文庫(2)があったので読んでみました。
―おっ、さすがカオル。
―茶化さないでよ。それで、この引用されている文章の場面ではフランス人の彫刻家サラジーヌはまだ彼が愛している歌手ラ・ザンビネッラが女性だと思いこんでいるんですね。だから、この文章は後でラ・ザンビネッラが男性であることがわかった後できいてくる。ただ、その二人の物語は名前のわからない「私」という人物が連れの若い女性に語る、という形を取っています。おそらく「主人公」というのはその「私」のことなんじゃないかと思います。
―とすると、「語ってるのは誰か」っていう問いの答えは「主人公」ってことになるの?
―もったいぶって連れの女性に語っているから、見た目や立ち居振る舞いが女性っぽいことを強調したかったのかもしれない。でも、正解はないんじゃないのかな。
―確かにこの「語っているのは誰か」という問いは一つの正解を求めるものではありませんね。、何気なく読んでいる小説の文章にも様々な可能性があることを示唆しています。しかも、「それを知ることは永久に不可能であろう」として、そのうちの一つを正解として絞りこんでしまうことはできない、ということも言っていますね。
―正解を決めてしまうのが危ないっていうのは先生の授業でも言ってたことですよね。でも、この後よくわからない呪文みたいのが始まりますよね。「エクリチュール」? これも何かの講義で聞いた気がするけど、なんか「書記」とか訳すんでしたっけ? 生徒会の書記とは違うってことでしたけど。
―「書かれたもの」と訳されたりもしますね。この本文のように訳さずに「エクリチュール」と書く方が多いとは思いますが。声に出して発せられた言葉に対して、文字として記された言葉であることを示すために使われていますね。声は一人一人違っていて、その人の肉体や個性を意識させるものですけれども、文字、特に印刷された文字はそういう面が抜け落ちて書き手からより切り離されている、ということになるのです。

というのも、まさにエクリチュールは、あらゆる声、あらゆる起源を破壊するからである。エクリチュールとは、われわれの主体が逃け去ってしまう、あの中性的なもの、混成的なもの、間接的なものであり、書いている肉体の自己同一性そのものをはじめとして、あらゆる自己同一性がそこでは失われることになる、黒くて白いものなのである。

―「黒くて白い」とか呪文だなあ。
―ここは相反するものを両方備えている複雑なものの喩えなのかな、と思って読みました。
―そうですね。白黒はっきりさせる、という言い回しがありますが、「エクリチュール」はすっきり割り切れるものではない、読者を考え続けさせるものだ、ということでしょう。さて、本文では一行空いて次のように続きます。

 おそらく常にそうだったのだ。ある事実が、もはや現実に直接働きかけるためにではなく、自動的な目的のために物語られるやいなや、つまり要するに、象徴の行使そのものを除き、すべての機能が停止するやいなや、ただちにこうした断絶が生じ、声がその起源を失い、作者が自分自身の死を迎え、エクリチュールが始まるのである。

―確かにここでは、「声」と対比して「エクリチュール」が出てきますね。タイトルの作者の「死」ということも出てくる。
―その後は歴史の話になってて、ここもわかりにくいんだよなあ。
―この後の続きで、これまでの話と関連づけて見ておきたいのは次の個所ですね。

作者というのは、おそらくわれわれの社会によって生みだされた近代の登場人物である。われわれの社会が中世から抜け出し、イギリスの経験主義、フランスの合理主義、宗教改革の個人的信仰を知り、個人の威信、あるいはもっと高尚に言えば、《人格》の威信を発見するにつれて生みだされたのだ。それゆえ文学の領域において、資本主義イデオロギーの要約でもあり帰結でもある実証主義が、作者の《人格》に最大の重要性を認めたのは当然である。作者は今でも文学史概論、作家の伝記、雑誌のインタヴューを支配し、おのれの人格と作品を日記によって結びつけようと苦心する文学者の意識そのものを支配している。現代の文化に見られる文学のイメージは、作者と、その人格、経歴、趣味、情熱のまわりに圧倒的に集中している。批評は今でも、たいていの場合、ボードレールの作品とは人間ボードレールの挫折のことであり、ヴァン・ゴッホの作品とは彼の狂気のことであり、チャイコフスキーの作品とは彼の悪癖のことである、と言うことによって成り立っている。つまり、作品の説明が、常に、作品を生みだした者の側に求められるのだ。あたかも虚構の、多かれ少なかれ見え透いた寓意を通して、要するに常に同じ唯一の人間、作者の声が、《打明け話》をしているとでもいうかのように。(3)

―ここでいう「近代」というのは、前から話している大量生産の資本主義社会のことを指していると考えてください。実は、この個所があるからこそ作者について考える入口として「近代」の話から始めたんですけどね。
―なるほどなるほど。《人格》その後も、文学史とか伝記とかインタヴュー(自作解説)も出てきますね。挫折まで出てくる。「作品の説明が、常に、作品を生みだした者の側に求められる」から、作者いまつわる情報が〈仲介者〉によって読者に伝えられる。
―「作者の声が、《打明け話》をしている」ように読まれがちだってのを読むと、最初に出てきた「エクリチュール」の話がそれを意識してるのがわかりますね。作者が語っていると決めつけずに、いろいろな読み方を考えることもできるってことで。
― 「作者」が親のように、さらには後で出てくる神様のように作品のすべてを見通してコントロールしているという考え方への批判です。この「作品」の「説明」を作者に求める立場に対して、「作品」は作者の「人格、経歴」などと結びついていない、と言っています。つまり2回目(2章)で説明した著作者人格権に真っ向から反対している訳ですね。
―法律の前提になってる考え方に反対しているのか。
―おもしろい、おもしろいです。
―この後の個所は近代のフランス文学史において作者の特権性を批判し抵抗した作家たちについて語ったところですが、ここはとばして、この後「テクスト」という言葉が初めて出てくるところを読んでみましょう。そこでは「作者」と「テクスト」との関係、というより非関係ともいうべきものについて語られています。

それは現代のテクストを完全に一変させる(あるいは―これも同じことだが―今後テクストは、その内部のあらゆるレベルから作者が姿を消すように作られ、読まれることになる)。まず、時聞が、もはや同じものではなくなる。「作者」は、その存在が信じられている場合は、常に彼自身の書物の過去と見なされてきた。書物と作者はおのずから、前と後に分けられた同一線上に位置づけられる。「作者」は書物を養うものとされる。つまり彼は書物よりも前に存在し、書物のために考え、悩み、生きる。彼は自分の作品に対して、父親が子供に対してもつのと同じ先行関係をもつのである。これとまったく反対に、現代の書き手(スクリプトウール)は、テクストと同時に誕生する。彼はいかなることがあっても、エクリチュールに先立ったり、それを越えたりする存在とは見なされない。彼はいかなる点においても、自分の書物を述語とする主語にはならない。言表行為の時聞のほかに時間は存在せず、あらゆるテクストは永遠にいま、ここで書かれる。

―この文章はずいぶん前に書かれたものなんですよね。でも、今も作者を通して作品を読むという傾向は続いていますよね。
―これまでの価値観をゆるがすための宣言としてかなり挑発的な書き方をしている、ということでしょうが、確かに「内部のあらゆるレベルから作者が姿を消すように作られ、読まれ」るということは一般的では無いですね。この文章が発表された1968年は世界的に旧来の価値観を打ち砕こうとする若い世代の運動が広まった年なんです。日本だと学生運動があったし、フランスだと「五月革命」と呼ばれるパリの街の一部を占拠するようなこともありました。いわば文学における革命としてこの「作者の死」は書かれています。ただ、「作者の死」は1967年のうちに書かれているので、「五月革命」とは関係ないし、そんなに闘争的な論文ではないと言っている研究者もいるんですが。(4)
―それはなんだかつまらないですね。
―研究って、つまるつまらないってことじゃないんじゃない。
―でも、バルトさんにかかわる事実を持ってきて論じるのは、「作者の死」で批判されていることじゃないですか。それで「テクスト」の可能性を閉ざしていることになってるように思うなあ。
―もっとも、1968年に書かれたものに資本主義批判にあたるものがあるので、闘争的な視点は十分にあったとも考えられるんですけどね(5)。話を戻すと、旧来の価値観は別の価値観に時におびやかされつつ、でも、その後も強い力を持って残り続けているというのが現状だと考えてください。
―だからこそカオルの後輩みたいに作者の意図を尊重しなければならない、という意見の人がいるわけですよね。一方でカオルみたいにその意見に納得できずに別の価値観を探している人もいる。
―まとめられてしまった。なんだか、偉そうだね。
―いやいや、確かに文学の研究や批評の世界だけではなく、日常でも作者をめぐる対立はあるということですよ。
―で、「テクスト」なんですけど。このあたり、呪文じゃないんだけど、わかるようなわからないような微妙な感じなんですよ。もう少しかみ砕いて説明してもらえませんか。
―ずいぶん、熱心じゃない。
―国語の先生になって、カオルみたいな文学好きの生徒に「「テクスト」ってなんですか?」って聞かれたらどうしようか、不安なんですよ。
―まだ採用試験の結果も出ていないのにずいぶん気が早いね。
―いや、採用試験が全部終って時間に余裕が出来たら、あれを聞かれるんじゃ、これを聞かれるんじゃ、っていう不安が出てきた。試験前は準備でそれどころじゃなかったけど。
―自分ではわからないことなら、生徒と一緒に勉強するということでいいんじゃないですかね。この時間のように。
―いや、教員になった先輩の話を聞くと、とてもそんな余裕は無いようなんです。だから今のうちに勉強しておかないと。
―じゃあ、どこがわからないのかということから考えましょうか。
―今の箇所の前半についてはいいんです。親が先に生れていてその親が年を取った後で子供が生れるように、作者が先にいてその作者によって作品が作られるってことですよね。でも、後半は…… 「現代の書き手(スクリプトウール)は、テクストと同時に誕生する」ってどういうことですか? 急に「書き手(スクリプトウール)」とか出てきて困るんですけど。
―原文のフランス語では作者は"L'auteur"です。"auteur"は英語だと"author"にあたる単語で、まさに作者なのですが、それと区別するためにここでは"le scripteur"、英語の”scriptor”にあたる「筆者、筆記者」と訳される単語を使っています。辞典の訳語の中には「作家」というのもあるのですが、「書記」という意味もあるんですねなんですね。「作者」という言葉が「〈人格〉」を担うものとして使われているということで、「〈人格〉」から切り離してただ書くものとして使っているのでしょう。日本語訳でもそれを尊重して「書き手」という訳を選んでいるのだと思いますよ。
―「作者」と「書き手」は何が違うんですか。少なくとも親のように作品に先行せず、作品を支配しているものではないわけですよね。
―今言ったように「〈人格〉」や、「経歴、趣味、情熱」といった背景を持たない、また作品に先立って存在しないのだから、「《打明け話》」をすることもない存在ということですね。「書き手」はただ「テクスト」と共に現れる。いろいろな説明ができると思いますが、私は「テクスト」を読んだ読者の中に生まれるそれを書いた人のイメージみたいなものでもあるかと考えています。それだけでは不充分だと思いますが。
―一人で読んでいる時よりはぼんやりとわかってきたような。あ、そう、その「テクスト」ですよ。次のところに例の「多次元の空間」が出て来るじゃないですか。

 われわれは今や知っているが、テクストとは、一列に並んだ語から成り立ち、唯一のいわば神学的な意味(つまり、「作者=神」の《メッセージ》ということになろう)を出現させるものではない。テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが、結びつき、異議をとなえあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である。

―ここで「作者=神」というのが出てくるのですね。「テクスト」は作者が自分のメッセージを伝えるための道具ではない。もっといろいろな読み方の可能性をもったものである、ということですよね。
―それが「多次元」?
―最後の「引用の織物」un tissu de citationsという言葉は、「テクスト」を説明する時に必ず引用される言葉ですが、元々「テクスト」自体が「織物」と関係しているわけです。
―洋服の布地をテキスタイル言ったり、服飾関係で関わりのある言葉がありますね。
―ああ、CGの3Dモデルにテクスチャを貼るっていう時の、あれとも関連しているんだ。肌とか服の質感を付けてリアルにするってことですけど。
―そう、実は日常的な言葉なのですが、それに新しい意味付けをしているわけですね。織物というのは、様々な太さや様々な色の糸が縦横に組み合わされて複雑な模様を生み出すことができるわけで、様々なものが組み合わされているということと、できあがった模様が単純なものではない、ということがここでは重要ですね。決して作者に結びつく単純な「唯一の」意味を表すものではない、ということです。
―でも、織物にはやっぱり織った人がいるわけですよね。それが作者ってことになりませんか。
―それはちょっとへりくつっぽくない? たぶん「引用」というのが大事で、既に他の人の書いた文章を寄せ集めることで新しい文章は書かれるからオリジナリティというのは重要ではないという話なんじゃないかな。織った人もいるかもしれないけれども、それは誰であってもかまわない、というような。
―うーん、そういうもんかな。
―確かにいろいろな解釈ができますし、全て矛盾無く書かれているということではないのでしょうね。でも、後の箇所で「「作者」のあとをつぐ書き手(スクリプトウール)は、もはやおのれのうちに情念も、気質も、感覚も、印象ももたず、ただこの果てしない辞書をもち、いかなる停止もありえないエクリチュールを、この辞書から汲みだすのだ。人生は常に書物を模倣するだけだが、この書物そのものは記号の織物であって、無限に遠い見失われた模倣にほかならないのである」とあるように、作者の〈人格〉から生み出されるオリジナリティ・個性という考え方を批判したかったのは確かでしょう。さて、少し飛ばしましょうか。

 ひとたび「作者」が遠ざけられると、テクストを《解読する》という意図は、まったく無用になる。あるテクストにある「作者」をあてがうことは、そのテクストに歯止めをかけることであり、ある記号内容を与えることであり、エクリチュールを閉ざすことである。(略)実際、多元的なエクリチュールにあっては、すべては解きほぐすべきであって、解読するものは何もないのだ。(略)文学(というよりも、これからはエクリチュールと呼ぶほうがよいであろう)は、テクスト(およびテクストとしての世界)に、ある《秘密》、つまり、ある究極的意味を与えることを拒否し、反神学的とでも呼べそうな、まさしく革命的な活動を惹きおこすのである。

―省略しているところはいろいろ比喩が使われてるのがわかりにくかったんですが、こんな風に抜き出してもらうとわかりやすいです。「テクスト」に「作者」の人生や思想を結びつけて、テストの正解のように一つの「究極的意味」を見つけたとか言ってるのは、せせこましい話だってんですよね。
―「解読する」と「解きほぐす」とを対比させているのは面白いですね。テクストは「織物」だから「解きほぐす」のですね。
―「解読する」は”déchiffrer”は仏和辞典ではそのまま「~を解読する」「~を判読する」といった訳語が当てられている単語です。一方の「解きほぐす」は”démêler”は「~を解きほぐす」「~を解決する」という意味になります。
―かなり近い意味を使い分けているのですね。「解きほぐす」方が布がいろいろな要素に分解されて、様々な読み取りを生み出す、というイメージなのはわかります。最後に「革命的な活動」と言っているのは、文学の考え方・読み方を革新するということだけなのでしょうか。
―そこもいろいろな解釈が可能ですね。
―また、いろいろあるんですね。今日はこのへんにしませんか。頭を使ってかなり疲れましたよ。
―「革命」が気になるのですが……
―では、次はその話から始めましょう。



(1) 引用はロラン・バルト(花輪光訳)『物語の構造分析』(みすず書房、1979年)による。以下全て同じ。
(2) バルザック『サラジーヌ他三篇』(芳川泰久訳)岩波文庫、2012年。
(3) 日本語訳で傍点を付けて「作者」となっているのは"L'auteur"というようにイタリックになっている箇所、後の引用でカギカッコを付けて「「作者」」となっているのは"L'Auteur"というように大文字を使っている箇所である。
(4) 石川美子『ロラン・バルト』中公新書、2015年。
(5) 『ロラン・バルト著作集 6 テクスト理論の愉しみ』(野村正人訳、みすず書房、2006年)に収録されている「構造主義と記号学」や「批評と自己批判」など。


※ロラン・バルト「作者の死」を取りあげたが、かなり長くなったので二つの章に分けることになった。「作者のひみつ」は次の章で終ることになる。まだ無印から「改」にあらためていない章もあるのだが、noteの使い勝手が悪すぎるので(こいつは思いついたことをだらだら書くためのもので、きちんと引用したり参照したりしようとすると、いらんストレスを感じることになる)、それはまた別の形で公開することにする。







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