『作者のひみつ(仮)』改 第10章


 10章 文学の「革命」・理想としての「読者」

 いつもの研究室ですが、今日はいつもと違って少ししんみりした雰囲気です。その雰囲気を生み出しているのは、一番寂しそうにしているカオルでした。
―すみません。私から望んで教えてもらいに来ていたのに、勝手にもう来ないことにしてしまって。
―受験ということならやむをえないですよ。でも、そんなに数学が苦手だったんですか。
―はい、この前の模試でも数学が足を引っ張ってために判定がかなり悪くなっていて。それ以外の科目の点数は全然大丈夫なんですけれども。
―でも、苦手な科目をこれから毎日補習って辛いんじゃないの。無理せずに志望校を変えた方がいいと思うけどなあ。
―どうしても直接教わりたい先生がいるの!
―そういう動機は重要ですよ。受験する大学にどういう教員がいるか、知らずにいる受験生がほとんですからね。
―先生からお話をうかがって、大学の先生といっても一人一人ずいぶん違うんだ、ということがわかったので、調べてみたんです。そしたら、あの大学に私が考えていることと関わりの深い研究をされている方がいたので、どうしても行きたいんです。
―その分野なら統計を扱うこともあるでしょうし、入試だけでは無く入学後のことも考えると数学は学んでおいた方がいいでしょうね。
―すみません。来週からは数学に専念します。
―わかりました。私もそろそろこの木曜日の集まりも終りかな、と思っていたんです。
―え、そうなんですか。まだまだ聞きたい話があったのですが。
―でも、作者についてはここまでいろいろ取りあげてきましたよね。自分で調べたり考えたりする材料は十分提供できていると思いますよ。でも、まだ「作者の死」について話し終わってなかったのでその続きから始めましょう。
―そうです、そうです。革命的な活動を惹きおこすんです。
―いや、カオルが惹きおこすわけじゃないでしょ。
―そういう気分なんだからいいでしょ。
―まあ、革命といっても常に暴力的なものとは限らないですからね。文学や文化に関する人々の価値観を更新するというのも革命と言ってもいいと思いますよ。作者中心の価値観から、作者を重視せずテクストだけあればいい、という価値観への転換が求められているわけですから。もう一度前回最後に引用した箇所の最後の一文を挙げてみましょうか。

文学(というよりも、これからはエクリチュールと呼ぶほうがよいであろう)は、テクスト(およびテクストとしての世界)に、ある《秘密》、つまり、ある究極的意味を与えることを拒否し、反神学的とでも呼べそうな、まさしく革命的な活動を惹きおこすのである。(注1)

 世界を創造し全てを知ろしめす神のように、作品を創造し全てを理解しているものとして作者を信奉する態度を認めず、作品を通して隠された作者の「秘密」、作者が伝えようとしたただ一つの「意味」を見出そうとする態度を批判しているわけですね。また、前回の四つ目の引用したうちの次の箇所も、その点にかかわっているでしょうね。

それゆえ文学の領域において、資本主義イデオロギーの要約でもあり帰結でもある実証主義が、作者の《人格》に最大の重要性を認めたのは当然である。

―また「資本主義イデオロギー」とか苦手な言葉が出てきた…… 前回はふれられなかったから安心してたのに。
―ここは、作者の生涯にかかわる情報やテクスト外の発言みたいな「実証」的な証拠を求めることが文学の研究では重要だと考えられてきたという話ですよね。
―それに加えて私有財産の所有を前提とする「資本主義」の社会で自明視されるようになった著作権も関連してると思いますよ。
―なるほどなるほど。そういえば著作物を作者の人格と見なして保護する著作者人格権というのがありましたが(二章参照)、ここでも「《人格》」と言っていますね。
―はい、さらに著作物を著作者の私有財産として認める著作財産権もここにはかかわっているんじゃないでしょうか。
―そっちもですか?
―増田聡という音楽について研究している学者が著書の中で作者の問題を再検討しているのですが、「作者の死」における作者の扱い、作者の機能を次のように分類することができると言っているんです(注2)。

 1 作品を生み出し(それを生産し)、
 2 その作品を所有し(著作権などの社会的制度が所有を保証する)、
 3 唯一の「人格」あるいは「内面」を作品に投影する(常に同じ唯一の人間が《打ち明け話》をする)。

―親のような存在であり、著作権を持っていて、「作品」を「説明」する者ですか。確かに今までの話でもこの3つは出てきましたが、特に区別はしてませんでしたね。こう区別すると何が変わるんですか?
―増田聡は「作者の死」で「真に死んだのは(3)の作者であった」、「彼の主張する「読みの権利の為に死ぬべきであったのは、(略)読者の行う読みの操作を抑圧する批評的観点である」と言っています。確かに文学作品をいかに論じるか、という面から考えるとそのとおりですよね。
―うーん、でも、私はこの分類で言うと(2)の作者にも死んでもらいたいんですよね。
―言い方が物騒だなあ。それは、作者の著作権は無くした方がいいってこと?
―一生懸命作品を作っている作者の人がお金をもらえた方がいいとも思うけれど、もっと自由に作者以外の人が作品を扱えるようにしてもらいたい、ということかな。
―それは、最初のカオルさんの問題意識ですよね。作者の意図を尊重しない二次創作は書いてはいけないのか、ということが。少なくとも今それは著作者人格権との関係で、グレーな状態にあるというのが納得いかないのですね。
―そうですそうです。
―ただ、この「所有」については、作者について問うた他のテクストでも大前提になっているのです。たとえば、増田聡も取りあげているミシェル・フーコー「作者とは何か?」(1969年)でも、「《作者》という機能」の一つとして「所有」について、このように言っています。

 ある作者による書物とかテクストはまず第一に所有(アプロプリアシヨン)の対象物です。それらの依存する所有形式はかなり独特な型のもので、それが体系化されてから、もういまや何年にもなります。(略)われわれの文化において(そしておそらく他のいろいろな文化においても)、言説はもともとはひとつの産物、物、財産ではなかった。(略)そして、テクストに対する所有制度が制定され、著作権や、作者と出版者との関係や、復刻・転載権などについて厳密な規則が規定されたとき―つまり一八世紀末および一九世紀初頭のことですが―まさにそのときからなのです、書くという行為に属していた侵犯の可能性が文学に固有の至上命令といった風貌をますます帯びるようになったのは。(注3)

―やっぱり著作権があるから作者によって「所有」されると考えられるようになったと言ってますね。でも、「もともとはひとつの産物、物、財産ではなかった」とすると誰のものだったんすかね。
―そもそも「書物とかテクスト」が誰かのものになるという考え方が無かったんじゃないということでしょうか。「作者の死」も「作者とは何か?」はそこが共通しているように思えます。
―そうですね。では、著作権があるということを前提とせずに、もう一度著作権と作者についてもう一度考えてみましょう。最近は知的財産、省略して知財という言葉で著作物を扱うことがありますが、作品を著作者にとって利益を得るための元手、資本として捉えるのが産業資本主義が支配する近代の著作権に関わる思想の基本です。言葉などの表現もまた著作物として作者によって私有され、子孫に相続されます。ただ、著作物を制作するのに使われる言葉・音・物といった表現の素材それ自体は誰かが独占できるものではなく、誰にでも使えるものです。
―なるほどなるほど。確かに今私たちが話している言葉の一つ一つも私たちが自分で考えたものではなくて、生れる前からある言葉を使っているわけですね。
―ああ、先生の授業で聞いた記憶がある。言葉はみんなが使える、使わざるを得ない共有財産だって。自分が全く新しい言葉を考えたり、新しい言語を生み出したりしても他の人と共有してコミュニケーション出来なければ、言葉・言語として成り立っていると言えないってことでしたっけ。
―そうです。もちろん、日々新しい言葉は生れているわけですが、それ狭い範囲であってもまずは人と人との間で共有されなくてはならない。そして、いったん共有されたらそれを独占することは誰にもできないはずです。
―でも、その言葉を使っているはずの小説や詩やエッセイといった著作物は限られた人が独占することが認められているのですよね。
―実は、それを当たり前と思うのか、おかしなことだと考えるかが「作者の死」というテクストでは問われていると私は考えています。つまり、(2)の「所有」する「作者」の「死」までが語られているということですね。
―〈革命〉だ……
―嬉しそうにしちゃって。
―資本主義の社会はまず私有財産(資本)の所有を前提とする社会ですが、私有財産を所有することを否定する思想もあるのです。その立場からすると、著作物を私有財産と見なす著作権自体が肯定できるものではなくなります。
―著作物が私有財産では無くなると、誰のものになるんでしょうか?
―みんなの共有財産になるんじゃないかな。共産主義ってそういうことですよね。
―その場合は、カオルが考えていたように二次創作し放題になんのかな。
―別にし放題になったらいいと思っていたわけじゃないよ。もう少し自由になったらいいと思っていただけで。でも、今の所有の話は著作財産権の話だけなのでしょうか。著作者人格権の方はどうなのでしょう。
―著作物が著作者の人格であるという見方は「所有」の概念が前提でしょうから、それも考慮する必要はなくなるかもしれませんね。その社会では誰でも使ってもいい、書き換えたり増やしたり削ったりできるものになっていると考えても良さそうです。
―そう言われるとそれがいいのか悪いのかわからなくなってきました。やはり原作が好きだから二次創作するので、誰でもどのようにでも作りかえられたら原作ということ自体が曖昧になりそうです。
―私たちが生活する中で感じている楽しみや喜び自体が、今の産業資本主義の社会だからこそありうることですからね。
―「革命」は大変なんですね。
―とはいえ、価値観をいくらかでも変えていくことで、別の楽しみや喜びが見つかることもあるでしょう。「作者の死」の功績としては、やはり読書・読者の自由について問題提起したことでしょうか。では、最後に作者ではなく読者について考えてみましょうか。
―「作者の死」の続きを読むんですか。でも、またよくわからなかったんですよ。「読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空聞にほかならない」。読者が「空間」ってなんなんですか?
―この前も「なんなんですか?」って聞いていなかったかな。
―いや、謎すぎるんだよ、この文章。前回の説明を聞いてわかったような気になってたけど、ぜんぜんまだ謎だった。
―「作者の死」で言う「読者」というのは、厳密には私たち読者のことではないんですよ。「テクスト」が実際の小説や詩などではない、一つの理想の提唱であるのに対応して、その「テクスト」を「解きほぐす」役割を担う理想的なものがここでは「読者」と呼ばれています。
―わかるようなわからないような。
―実際に最後の箇所を読んでみればいいんじゃない。

 バルザックの文にもどろう。誰も(つまり、いかなる《人格》も)それを語っているわけではない。この文の源、この文の声は、エクリチュールの本当の場ではない。本当の場は、読書である。

―「本当の場」か。この「場」も「空間」と同じことなんですかね。
―そう見てもいいでしょうね。できる限り書く人や読む人を遠ざけるような言い回しが選ばれているということかと思います。エクリチュールというのは前回話したように書かれるということと関連付いた言葉なのですが、既に書かれてそこにあるものとして開かれる「場」や「空間」として「読書」を取りあげているわけですね。
―この後のところでエクリチュールがまた出てきて、前回の箇所よりも更にいろいろな意味が加わっていて混乱します。

一編のテクストは、いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュールによって構成され、これらのエクリチュールは、互いに対話をおこない、他をパロディー化し、異議をとなえあう。しかし、この多元性が収斂する場がある。その場とは、これまで述べてきたように、作者ではなく、読者である。読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空聞にほかならない。あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。しかし、この宛て先は、もはや個人的なものではありえない。読者とは、歴史も、伝記も、心理ももたない人間である。彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすぺてを、同じ一つの場に集めておく、あの誰かにすぎない。

―「多元的なエクリチュール」ってのについては前回の説明でわかった気になってたんですが、「対話」とか「パロディー化」とか「異議を唱える」とかはどういうことなんだろう?
―ここは「引用の織物」ということと関わっていると思って読んでいたけどな。テクストとエクリチュールはほぼ近いものとして考えられると思ったので。「織物」というのが異なる太さや色や素材の糸を組み合わせたものだと考えると、それは「いくつもの文化」にたとえられるし、他の言葉も異なるものが出会うことで生じることを並べているように思いました。
―テクストやエクリチュールは、前回話したようにたとえば作者のメッセージを伝えるものではないし、また時代性とか地域性といった一つの観点で説明できるものではないということですね。ただ、「読者」がそれを担うことができるということです。
―さきほどこの「読者」というのは私たち読者のことではないと仰っていましたが、それはどうしてですか。
―私たちには「歴史も、伝記も、心理も」ありますからね。それが無い人間というのは考えられませんよね。「あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される」のも難しい。私たちは読みながら、前の読んだところを次々に忘れていきますから、そんな「統一性」を引き受けることはできない。もちろん、何度も繰り返し読むことで、「エクリチュールを構成するあらゆる引用」を意識することはできるかもしれませんが、私たちが持つ「歴史も、伝記も、心理も」読みに偏りを与えることは避けられない。だから、私たちはこの「読者」ではないんです。
―そんならどうしてここで「読者」という言葉を使っているんですか?
―「死」を宣告した「作者」との対比でしょうかね。ただ、「読者」を実在のものとして特別のものと見なすのは、実在の作者を特別なものと見なしていることの裏返しでしかない。作者至上から読者至上に移っただけということですね。そこで、私たち読者とは異なる実在しない「場」としての「読者」を想定したのではないでしょうか。
―うーん、やっぱりわかるようなわからないような。生徒に質問されて、そんな風に答えても通じるとは思えないですよ。
―でも、こうやって対話をすることでどこまでがわかって、どこがわかりにくいのかは明らかになるんじゃないかな。私は、私たち読者が読む時に作者のことを考えなくてもいいという説明はすっと入りました。
―ただ、あらためて思ったんですけど、ずっと作者を通して作品を読むのが当たり前だったのは、その方が楽だったということもあるんじゃないですかね。完全に実行するのは難しいってことでしたが、それでも「いくつもの文化からやって来る」「エクリチュールを構成するあらゆる引用」をに意識を向けるっていうのは、ずいぶん大変じゃないですか。それよりも、作者がこう考えたからこうなった、とか、作者の体験した事実を元のこのように書かれた、と言った方がわかりやすいですよね。
―わかりやすいことはわかりやすいけれど、でも一つの読み方だけというのは窮屈じゃないかな。
―作者の情報に基づくただ一つの読みか、テクストを織りなす言葉を尊重して様々な読みの可能性を開いていくか、私たちはその中間のどこかで読むということを考えているのだと思います。そして、確かに様々な読みを受け容れるというのは大変です。それに耐えられないために、人は作者の意図という正解を求めるのかもしれません。正解もない状態で考え続けるのは大変ですから。
―なるほどなるほど。作者を尊重したいからではなく、本当は楽になるために作者を利用していると考えると腑に落ちます。私もいったん受験の方に集中しますが、この後もずっと自分の創作について考え続けることにします。
―そうですね。別に文学を専門に研究していなくても、考え続けることはできますから。
―楽になりたくて正解を欲しがる生徒に、正解があることばかりじゃないとうまく説明しないとなあ。
―先生、頑張ってね。
―まだ先生じゃないよ。
―二人とも4月には全く違う境遇になっているんですね。私はしばらく大学で同じ境遇を続けていますが。
―ぜひ、またお話ししたいです。
―そういう機会もあるかもしれませんね。
 さて、三人の作者をめぐる時間はこれで終りです。とはいえ、最後にあったように答えが出て終ったわけではありません。これから先はこれまで見守ってきたみなさんが考える時間かもしれません。それでは、ひとまずお別れです。

(注1) 引用はロラン・バルト(花輪光訳)『物語の構造分析』(みすず書房、1979年)による。以下全て同じ。
(注2) 増田聡『その音楽の〈作者〉とは誰か』みすず書房、2005年。
(注3) 【ミシェル・フーコー文学論集―1】『作者とは何か?』哲学書房、1990年。清水徹訳。


※noteに「作者のひみつ」を置くのはこれで最後とするつもり。やはり圧倒的に使いにくいインターフェイスなので、使い続ける気にならない。「改」への切り替えはこれからも地道に進めていって、全て作りかえたら別のところで公開することになる。1冊の電子書籍にして、どこかの電子書籍サービスを利用って感じかと今のところは考えている。とはいえ、しばらくは別の原稿に取りかかるつもりである。

それでは、またどこかで。


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