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社会が決めてくれる正義

この方の活動が少々話題になっている。

この方の活動を「迷惑のレイヤー」で捉える人、「正義のレイヤー」で捉える人が多いと感じた。労働の国日本では、もちろん「迷惑のレイヤー」で彼女を非難している。また、それを踏まえて「正義のレイヤー」で、正義の表現手段としての不適切さを批判する意見もあったし、社会そのものへの問題提起はどちらにせよ皆にとって意味があるはずだと賛同する声も読んだ。

だが、私はまた別のレイヤーがあると思う。それは「社会から外れているキャラのレイヤー」である。そのレイヤーでは「面白いかどうか」の方が圧倒的に重要である。そして、そのレイヤーで最強の者は、多くの支援は得られなくとも、「正義」よりももっと深いところで共感を得られるはずだ。

いや、正義とは、我々の集合意識としての社会が事後的に判断して決めるものだという『欲望問題』(伏見憲明)の論によるなら、10年後、誰かが発掘して「正義」のシンボルにされてしまうかもしれない。

私は会社を辞めた後の半年間、この社会がいかに「社会からちょっと外れた人間」に冷たいか、そして、その中できちんとやれて結果を出せるのが当たり前だと思って日々頑張って生きておられる諸君の心根がいかに薄情であるか、をよく知った。その上で申しあげる。

この方の活動の究極的な目的はあくまで「社会の側が変わる」こと。その目標のために、目の前にいる、組織の奴隷として生きる他ない個々人のその日の気持ちや苦痛は大雑把に切り捨てている。これって映画になるような物語だと私は思う。私が言ったから何だってんだって話だがw

私は、「映画パンフは宇宙だ!」という団体の活動の一環として、昨年末に、映画監督の原一男監督と、佐々木誠監督の対談に立ち会い、記事も書かせていただいた。(あ、以下は宣伝だよ

https://pamphlet-uchuda.stores.jp/items/605afda4a87fc53eefe328ee

上記のリンクで買える本『【紙版】The Enemy is Ourselves about Us [アス]』という本の終わりの方8ページに亘ってお話していただいた内容を掲載)

その前に、さすがに直ぐ観られる作品は観ておかねばと思い、原監督の『ゆきゆきて、神軍』を観た。

これが…「パヨクリハビリ」という既に記憶の彼方に消えかかっている私のライフワークにばっちりハマっていた。社会変革とは、まさに目の前に展開する(戦後昭和のような)安穏な日常生活の破壊だということをまざまざと教えてくれる。

奥崎氏の場合は、戦争犯罪を目にし、恐らく加担もし、そのために戦後失敗をして大きな罰を受けた、という形で罪のロンダリングを済ませ、概念に近い存在「奥崎さん」ができあがっている。その立場から何かを糾弾することに本人の中で矛盾はあり得ない上、外から見ていても妙に一貫性があるのだ。これが社会変革の狂気でなくて何だろう。原監督も、上記対談の中で奥崎氏を「矛盾に満ちた人」とおっしゃっている(本…買ってね♡)。私は本当にこの言葉こそ、このポリティカル正義が好まれ、アイデンティティ政治がポップ文化のど真ん中を歩いている今の時代にこそ、皆が忘れていることだと思った。

戦後昭和という、戦争を忘れたい人達と、「従順な日本」を求めた国際情勢がばっちりかみ合ったあの時代においては、あのような社会変革の狂気もある種の居場所があったように思う。

上記作品が撮影されたのは1980年代初頭だったが実際公開されたのは、バブル真っ只中の1987年。繁栄の中で「今日より明日の方がよい」と信じた日本人の目にはどう映ったのだろうね。今観ると、恐らく、冒頭の伊是名さんに対して投げかけられたであろう態度「迷惑のレイヤー」で片づけられただろう。そして、映画でははっきり描かれない奥崎氏の妻の生き様にもっと心を砕くだろう。

さて、この映画と同じころに、ある女性の社会への反逆と狂気、そして彼女に対する制裁を描いた映画が製作・上映された。『Gorillas in the Mist』、邦題『愛は霧のかなたに』である。1988年作。

私は本作は、有能な女性に見られる「あたし対世界大戦」を描いた作品であり、そして社会変革の手段とは大小の反逆行為であり、「変革に犠牲はつきもの」(私の父、共産党員、2002年w)なのだということをはっきり描いた作品だと思う。社会との正面衝突の道に、主役(実在)の学者ダイアン・フォッシーはいつ足を踏み入れてしまったのだろう。同作では、「社会から外れてしまう」という事に対する彼女の躊躇いが描かれない。さすがだ。だがゴリラ保護に熱心過ぎて味方からも呆れられてしまう(実際はもっと色々あったであろう…今回の駅員さんはまだまだいい方だ)ダイアンは、哀しい最期をとげ、それが故に最後のテロップは「社会変革」の光を神々しく放っている。そしてその光の周りには、本人含む沢山の人の影が伸びているのである。

物語としては、そのように消費されるべき「社会から外れた人」レイヤーとして、冒頭のコラムニストさんは生きて突き進み、社会と小さい衝突を繰り返しながら、社会を変えていくだろうか。社会は事後的に彼女の信念を「正義」と認定するだろうか。「当然だ!」と「正義のレイヤー」は言うが、「迷惑のレイヤー」は「こういう人は無理!」と反応している。

私は、「もっと社会から外れる道を邁進すべきだ」と考えることにした。

社会と私を別物のように語っている私は傲慢だろうか。

ええもちろん傲慢よ

そして、この社会変革が実現したときに、下のような意見をもう一度読んで、私がどういう風に思うのか、自分に訊いてみたい。

アカデミズムという社会的マジョリティの作り出した権威に乗って生きている方が、マジョリティの「特権」について何かの意見を述べるのは滑稽だが、「人間とは矛盾に満ちた存在」だ。私は社会変革は、集合意識としての「社会」がそう変わったのだというものとして考えたいので、その時、「手柄」という相対的に些末なことに、私が囚われていなければいいなと心底願っている。

まあ、そこまで生きられたとして、という話だがw

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