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怒れ怒れと扇動する

『最後の決闘裁判』という映画を観ようかな、と思ったら都合が合わなくて『デューン』を観た。Netflixの始まる時の音声みたいなタイトルの映画。私は映像美に酔えるタイプではないため、きれいな画像と、裸にされたオスカーアイザックを堪能した。思っていた以上に随所にユーモアがあり、クスクス笑ってしまった。ラストは背中を見せて終わったのでまずまずハッピーエンディング。第二作も製作決定でおめでとう!!

さて、『最後の決闘裁判』だけど、ツィッター上の感想を読んでいて段々興味を失ってしまった。観る前から、正しく怒らないと自分が非難される踏み絵かつリトマス試験紙映画なんだなと思う。正しく怒れない自分は何かが足りないのだろうか…と考える人もいるし。それはそれで偉いと思うけどね。

左翼思想に人生を乗っ取られていたところから自分を救い出し、まあ共存はできるかなというところまで持ってきた…旅はまだ終わらない〜ヘッドライ〜テールラーイト…終わりはないけど、そういう体験をしてきた私としては、正解の物差しに自分が合ってるかと考える行為に反発を覚えてしまった。何故かと言えば、合わせる方が楽だから。人から嫌われないから。でもそれだったら文章書く必要なし。何せ物差しがあるんだから、それは議論するようなことではないのよ。最初から。これは宗教戦争と同じなので、踏み絵がそこら中にある。

オリンピックに対する皆の反応を見た時もそう感じたし、何なら去年の『ミッドナイトスワン』のこと書いたり、トランス運動のことを考えた時もそうだった。歯切れが悪い。

自分が非難されたくないから中道的な安産地帯に着地…愛の無い不時着しただけだった。

少し前に、品川駅がゼイリブになった!という話があった。

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こういうメッセージって、散々言われて嫌われているのかなぁと思っていたけど、これが世の中の平均値に近いんだろう。作り手はそう思っていそう。

それはいいとして、こういうキレイキレイの無菌状態のメッセージの方向性とは全く異なるところに、怒れ怒れと扇動する方向性がある。怒る理由はそれぞれにあるに決まってる。私にだってあったよ。でも、そんなの大したことはない、こちらの怒りの方がより、深刻で正義なんだ!という感じがするのが今の時代。

泣ける映画!全米が泣いた!というのが長らく映画の宣伝文句だったが、主にアメリカで表面的な世論の軸が保守寄りから左側に少し寄ってきたら、感動とかよりも、怒りの方を煽るようになって来た気がする。

怒りに震える映画!全米が激怒!

あの国民は、国防に関しては常に超保守で自国以外を見ないという姿勢はあまり変わってない気がする。オバマとトランプが米中冷戦のための地ならししたようなもの。人権外交に正義の怒りスパイスを足してしまったように見える。それにより正義の顔を与えて自国の侵略性をカモフラージュしているのでは。バイデンは来るべくして来た人だろうから見なきゃいけない。

『最後の決闘裁判』について正しい反応とは、

現実はそんなもんじゃない、簡単に分かったとか言うな、私の怒りは同じく怒っている人にしか分からん!

というもののような気がしてならない。ポリコレ時代のアメリカ映画は、何と言いますか、怒りを煽っている。サングラスかけたら、もっと怒れというメッセージで溢れているのが見えそうだ。

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それぞれに怒る理由はあるし、それを抑えたり隠したり我慢する必要も無いと思うが、それは議論がしたいのではなくて、ただ怒りたいだけなのだし、革命を求めているのだと思う。

このドラマの第三シーズンはそこに触れていたと思う。耳を傾けなさい、と言っていた。でも、残念ながら人間は、耳を傾けていると、段々何か言いたくなるものだ。怒っている人にとって、分かってない相手から出てくる言葉を聞くのは苦痛だし、それがセカンドレイプと呼ばれるのだ。つまりは、何か思っても、何も言わずにただただ聴き続けるのが正解なのだろう。怒ってる側が本当にそうして欲しいのかは分からないけど…

でも、そうなってくると、社会派の激怒扇動映画を観ても涙は出てこない。腹が立ってくるし、自己嫌悪やら何やらで恥いってしまう。そこで一度止まれれば、まずは踏み絵テストには合格したことになるんではないかと思う。でも、止まんなくてもいいと思うの。

まず、そこまで当事者性もなく、故に怒りが少ない人は、怒り共同体になってる人達には議論をふっかけないこと。そっとしておくこと。自分が自分を振り返るかどうかは個々の良心の問題だし、絶対わからないことはある。そんなもんだと思って少し落ち込んで、少しはマシになれたらいいなあ、くらいに思えたら素晴らしいと思う。

そうできなくて、私の苦痛と怒りはホンモノで、あんたの怒りは私のより深刻度は低いんだからあんたは我慢しろ、と言い合って泥沼化している人達を、この二、三年ミュートしまくって来た。近寄らぬが花。その人の怒りは、今の自分を100%肯定して生きやすくなるための手段。だから他人の怒りは分からなくても仕方ない。分かってあげようとしない方がいいし、説得なんかもってのほか。でも、万が一、こちらに話しかけて来たら、ただ聞いたらいいのではないかと思う。相手が話したくないのなら、縁が無い。こちら側もあっち側も準備できてないということだから。

一年前の自分のパニック状態を思い出せば辛うじて理解はできる。私の困っていたことや怒りを感じていたことは、大半の人にとっては、

そんなの大したことはない

というものだと私も思うのだが、その最中にいるときに、

そんなの大したことはない、私の方が…

と相手にやられると、或いはそういうつもりでなくても、そう聞こえるようなことを言われるとものすごくガッカリした。彼らに私を貶めるつもりが全くなかったの、分かるんだよね。

でも、もし、無自覚な人に私の今を否定する言葉を言わせる仕組みがあるんだ、その仕組みを破壊しなければ、また同じ攻撃を受けるんだ…さあ怒れ!と説明されたら?自分の今を肯定して過去を救うには、その説明に飛びついて、怒る方を選びますよ。ましてそれで説明ついてしまう事柄が世の中に溢れていれば。

私がそちら側に行かなかったのは、短期間で仕事が見つかったし、人に支えてもらえたし、結局は、他の人の言う通り、大したことじゃなかったの。だが辛かった。終わったからもういいし、分かってもらわなくていいんだけど。

でも、激怒扇動の仕組みが少し見えたようにも思う。

では、最初の方に書いたこと…だったら私が文章書いたり発信する必要ないよね、という観点には答えはあるか。これからは、怒りを煽るような言葉は私は使わないようにしようと思う。それから、自分が割と冷静でいられることを考えていく。ホラー映画は私にはちょうどいい。ソーシャルスリラーと言われる(でもこのターム使ってる日本人はあまり知らない…)、激怒扇動映画は、多分世の中がもう少し変わったら意味がわかって来ると思う。我々がいかに激怒を扇動されていたのか分かるのかも。或いは更なる怒り段階に世の中が達するか、激しい保守化に晒されるか。何とも言えないね。


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